三つの生き方
中尾フィリップ牧師
私が最初にアメリカに来てから、もう20年近くなります。20年前と違って、今は、かんたんに情報が手に入り、アメリカと日本の差はほとんどなくなりました。アメリカ生活をエンジョイしている人のほうが多いと思いますが、それでも、文化の違い、制度の違い、また、ことばの違いなどから来るフラストレーションを感じている人も多いと思います。家族や親戚、友達をみな日本に置いてきて、ひとりで頑張っている人の中にはふと孤独を感じたりすることもあるのではないでしょうか。そんなとき、どうしますか。どうしたら良いでしょうか。
アメリカでサバイブしていくのに、三つの方法があると思います。それは、第一に「たくましく生きる」ことです。「たくましく生きる」というのは、あまり説明がいりませんね。学校で単位を落としても、なかなか英語が上達しなくても、彼女にふられても、就職の面接で断られても、「こんなことでダメになってたまるか」と、石にしがみついてでも、努力することです。私はずっと前、「あきらめないで!」という話をしたことがあります。ペリー提督は七回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、あきらめないで八回目に北極点に到達しました。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試しました。そして最後に京都の竹で作ったフィラメントを使って成功したのです。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインが「オクラホマ」で成功するまで、六回のショウはすべて失敗でした。しかし、その後「オクラホマ」は2,248回ものショウを重ねることになったのです。ベーブ・ルースは714本のホームランを打ちましたが、その倍以上の空振りをしています。ユリシーズ・グラントは、軍務についている時に酒を飲み、酔っ払ったため、軍を辞めさせられました。それでビジネスをしましたが、失敗し、農業も試してみましたが、それも失敗しました。彼は、働き盛りの四十代に、薪ひろいをし、それを道端で売っていたのです。しかし彼はあきらめませんでした。そして、ついにアメリカ大統領にまでなったのです。あきらめないで、へこたれないで、たくましく生きていくなら、きっと道が開かれるでしょう。
第二には、「賢く生きる」ことです。といっても、「悪賢く」ということではありません。そういうのは、そのときは得をしたように見えてもかならずあとでしっぺ返しがきます。真実をごまかしながら要領よく世の中を渡り歩いていても、かならずどこかで落とし穴に落ち込みます。聖書は「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:7)と言っています。「主」というのは神さまのことです。人間が作り出した神々のことではありません。聖書に、人々は山に木を植え、それが育つとそれを切り取って暖炉で燃やしてからだを暖め、またかまどにくべてパンを焼き、肉をあぶって食べます。「ああ暖まった。ああ満腹した」と言ってから、その残りの木切れを人の形につくり、それを神さまにしたてあげて「私の願いごとをかなえてください。私を救ってください。」と言って、人は勝手に神々を作って拝むが、それは愚かなことだと言っています(イザヤ44:10-19)。人間が作ったものが、人間以上のものであるわけはなく、それが人間を救えるわけがありません。ほんとうの神はこの世界と人間を造ったお方です。神がこの世界と人間を造ったのなら、神はこの世界の主権者、人間の上に立つお方です。それで、聖書は神を「主」と呼んでいるのです。「主を恐れることは知識のはじめである」というのは、神を神として敬うことにすべての知恵、知識の基礎があるということです。聖書に「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩119:9)ということばもあります。神のことばである聖書から知識の中の知識、知恵の中の知恵を得て、ほんとうの意味で賢く生きるものになりたいですね。
第三は「より良く生きる」ことです。たくましく生きる、賢く生きるというのは、動物でもある程度できます。いや動物のほうが、人間よりももっとたくましく生きているかもしれません。人間から殺虫剤をぶっかけられたり、スリッパではたかれたり、粘着テープの檻の中に閉じ込められたりしても、ゴキブリはたくましく生きています。核戦争で人類が滅びても、ゴキブリは生き残るだろうと言われているほどです。また、チンパンジーに棒を与えると、手の届かないところにあるバナナを棒で叩き落としたり、その棒をハチミツの瓶につっこんで、棒についたハチミツをなめたりします。動物だって、賢く生きることができます。しかし、人間だけが、より良く生きることができます。正しく生きようとするのです。人は、たとえそれが損になることでも、規則を守って正しく生きようとします。なかなか願う通りの人間になれなくて、「なんて自分はダメなんだ」と失望したり、「どうせおれはダメなんだ」と開き直ったりすることがあっても、心の奥底には、自分を変えたい、向上したいという願いがあります。
教会は、自分を変えたい、成長させたいと願う人たちが集まるところです。教会にはだれも完全な人はいません。むしろ自分の足らないことを知って、より良く生きよう、人間として成長しようと願い、求める人が来るのです。教会では聖書のことばを学びます。聖書のことばはたんなるインフォメーションではありません。それはトランスフォーメーションです。神のことばが私たちを変えるのです。多くのクリスチャンが「神さまが私を変えてくれた」と話しますが、私も、神さまに変えてもらった、ひとりの少年の話をしたいと思います。
彼が聖書の勉強をはじめたのは16歳のときでした。科学雑誌なんか読んでいるくせに、仏教に興味をもち、仏壇に入っているお経など読んでは感動しているという変わった少年でした。彼は小学生のときに母親を亡くし、自分も病気になったりして、まだ若いのに「人生」を考えていたひねた少年でした。しかし、聖書を勉強して彼は考えたのです。イエス・キリストに出会った人はみな、変えられていった、悪人が善人になり、弱い者が強くなり、臆病な人が勇敢になった。自分も、汚いこころを持った人間だが、きよい心を持つことができるのだろうか。それで、彼は、教会に行ってみようと思い立ちました。金曜日の夜、教会で特別の集まりがありました。ちょっと遅れて教会に入っていくと、聖歌隊が賛美歌を歌っていました。「わが生涯はあらたまりぬ。イエスを信ぜしより。」という賛美歌が彼の心をとらえました。そのあと、牧師のお話がありました。「あなたの罪は、祭壇の角に、ダイヤモンドの筆で書き込まれている。」という恐ろしい話でした。でも、彼はそれにうなずくことができました。神が、ほんとうにきよく正しい神なら、自分のしてきたこと、こころの中にあるものはみんなお見通しで、それは記録されているに違いないと思ったのです。
しかし、この少年は、もっと素晴らしいことを聞きました。それは、イエス・キリストがその罪を赦し、心をきよめてくれるということでした。牧師が、「イエス・キリストを信じたい人は手をあげなさい。」と言ったとき、彼は、素直に手をあげました。集まりが終わってから、「さっき手を上げた人は、前にきて、教会の人に祈ってもらいなさい」という呼びかけがありました。少年は、よびかけに答えて前に出ました。加藤さんという小柄で、黒い縁の丸めがねをかけたおじさんが彼のために祈りました。彼もまた、生まれてはじめて、まことの神さまに祈りました。そのとき、少年の心に大きな変化が起こりました。心が喜びでいっぱいになりました。教会からの帰り道、今、聞いたばかりの賛美歌「わが生涯はあらたまれり」を歌っていました。その翌年のイースターに彼は洗礼を受け、やがて神学校に行って牧師になりました。日本で伝道してから、アメリカにやってきて、今、サンノゼで牧師をしています。この少年は今から40数年前の私です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第一5:17)私が、きょう、みなさんに伝えたいのはこのことです。短い時間ではすべてを話しつくすことはできません。これから、教会で一緒に、パワフルな神のことばを学んでいきましょう。
(祈り)
私たちを造り、私たちをこよなく愛してくださる神さま。あなたは私たちに、イエス・キリストによって「たくましく生きる」力を与え、「賢く生きる」知恵を示し、「より良く生きる」道を開いてくださいました。今、ここに生きる希望をなくしている人がいたら、キリストによって希望を与えてください。生きることに疲れている人がいたら慰めを与えてください。何のために、どう生きて良いのかわからないでまよっている人がいたら、どうぞ、その人を導いてください。きょうここに集まった人たちが、イエス・キリストを信じて、最善の人生を生きることができるように助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。