出会いシリーズ 
H. 小夜子



 1950年。私達は、ロスアンジェルスの古い大きな家に住んでいた。 その頃主人の弟がUCLAに留学で渡米して来たので、私達の家は、留学生の「たまり場」になり、いつも2〜3人の泊まり客があり、週末になると十数名の学生達が集まり、食事を共にし、主人に勉強の補足を助けられながら、週末の仕事の世話や住む所の世話、と次々新しい学生達が集まり、にぎやかな楽しい交わりが続いた。
夏休みには、主人の友人で、「ヤギの小父さん」で知られていた、ニコルソンさんの依頼で、終戦後の貧困の日本に送る「ララ物資」の収集、(大きなトラックで指定された白人の家々から)物品を受け取り、ひと所に集め、品物のより分け、小包にし発送と、汗を流しながら働き、良いことをしていると、自己満足していた。休みが終わると皆は学校に帰り、私は教えている日本舞踊クラス、茶道、華道のクラス、発表会、展示会等と、多忙な日を楽しく過ごしていた。

ある日の午後。ハリウッドボールの音楽会に行くチケットを買い求めて帰る途中、小さな日本人食料品店のウィンドウに貼ってある一枚の手書きのポスターが目に留まった。
「賀川豊彦師講演会.於ソーテル日本語学校午後七時半より」
私は学生時代、賀川豊彦師の著書「死線を越えて」「神による新生」などを愛読していたので、懐かしい旧師に会えるような喜びで、やっと手に入れた音楽会のチケットを友達にあげて、夕食を早々と済まし、六時半になると会場に行き5、6人の人々と一緒にイスを並べる手伝いをしながら、一番前の席に座って待っていた。
「賀川豊彦師講演会.於ソーテル日本語学校午後七時半より」
私は学生時代、賀川豊彦師の著書「死線を越えて」「神による新生」などを愛読していたので、懐かしい旧師に会えるような喜びで、やっと手に入れた音楽会のチケットを友達にあげて、夕食を早々と済まし、六時半になると会場に行き5、6人の人々と一緒にイスを並べる手伝いをしながら、一番前の席に座って待っていた。

贖罪愛の実践者として知られる、賀川豊彦師は、明治二十一年、父純一と、妾「かめ」との子として神戸に生まれ、徳島中学在学中に、宣教師に出会い信仰に入り、明治学院、神戸神学校を卒業。二十二歳の時、神戸の貧民窟に入り伝道を開始し、米国留学を経て、貧民窟に戻り、伝道、と徹底した献身を実践した。労働運動、農民運動、協同組合運動、セツルメント事業、各種の社会事業を指導、、イエスの友の会、キリスト教新聞創設、神の国運動を通して全国的に巡回伝道を推進した。百六十九に及ぶ著書の一つ「死線を越えて」はベストセラーとなり、その印税を教会建設や伝道事業に捧げ尽くした方。 その賀川師が目の前に現れる。集まった会衆は80名足らず、静かにドアから入って来られた方は、小柄な少しダブダブのスーツで前歯が2本欠けている、一見田舎の小父様と云う感じ。 賀川師は、講壇から下りて、私達と同じフロアーに立たれ、挨拶をなさった。

「渡米前に、いつもの『よっぱらい』が家に来て、『金をくれ』とせびりに来たが『今日は金がないから、何か金になりそうな私のコートを持って行ってくれ』と言うと『こんなボロが金になるか』と、いきなりゲンコツで殴られ、前歯を失ってしまいました。少し言葉が分かりにくいと思いますが辛抱して下さい。」と言われ、早速聖書のヨハネによる福音書三章十六節から「神の愛」と題してお話ししてくださった。
「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。」
語られる賀川師の五体から、ほとばしるような、神の愛が、私の魂を揺すぶり、心の中にしみ込んでいく。 神の一人子が地上に下りて来られた理由。十字架の死が、私の救いの為であった事実。自己中心で自己満足のみを追い求めている自分の生活。人の為に時間を用いる事など考える事もない生活。同じ人間でありながら何という違い。 神を信じ従っている人と信じていない自分の差にお話の間中、涙が止まらなくて困った。
お話が終わりお別れの時、賀川師は大きなポッタリした両手で私の手を取り、「神様を信じて、幸せな家庭を築きなさい。」と言われた。

その後私は、イエス・キリストを我が救い主と信じ、罪を告白し、洗礼を受けて献身し、聖書学院で聖書を学び、神の愛を一人でも多くの方々に伝えたいと願い、喜びつつ奉仕をさせて戴いている。
五十一年前、賀川豊彦師にお会い出来なかったら今の私はなかった事でしょう。若い時に巡り合った賀川師によって聖書の紹介しているイエス・キリストを信じ従い、私はまちがいのない道を今日まで導かれて来た。不思議な神の導きを感謝している。


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