自己 紹介

H. 晴美

へーベルマン山口晴美です。3人の子供がいます。主人はオランダ人で会社の転勤でこちらに4年ほどおります。
前回は私のオランダ時代、暗くキツク悲しい3k子育てストーリーでしたので今回は私の生い立ちに立ち戻りとくにテイーンエイジ時代、非行できない不良時代を回想したいと思っています。

 私は生まれも育ちも東京の雑司が谷です。駅で言うと池袋―目白界隈です。実家は鬼子母神神社の商店街で中華店をやっています。 早稲田までいく都電の駅前です。おじいちゃんの時代はおせんべいやだったそうですが戦争でまっさきにお米が配給制になりつぶれてしまったようです。
両親が商売をはじめたころは火の車で、姉が生まれても極貧でおじいちゃんが孫の下着などつくってくれていたそうです。おじいちゃんに3人そだてられたそうです。ほとんど放任でそだち運動会にもPTAにも参加できない親でしたが子供の私はかっぽうぎみたいな姿の母がはずかしく来てくれたら困るとさえ思っていました。(ごめんね。お母さん)
 学校がエリート小学校だった為、高学年になるころ受験勉強にいそがしい友達とのへだだりを感じ、目白の豪邸に住んでいる友達と商売をやっている自分の家を比べてコンプレックスを感じていました。
それでも中学にいくと自分の家が普通なのだとわかり明るく自信をつけていきました。姉がすでに不良で私立校にいって再試だなんだとあまりにお金がかかるので両親の希望で都立高校にいきましたが、ランクをさげたため簡単すぎると高慢になってしまい勉強をしなくなり、その上夏休みに数人のクラスの友達と始めたパン屋のバイト先で知り合った子からディスコに連れていつてもらい(時は80年代のディスコ黄金時代)、すっかりはまってしまいまるで部活にでも行くように(お金が無くても顔パスだったり)通いまくりおまけに学校が始まっても毎日遅刻、授業をさぼり、ずる休み(それでも自分は追いつけるとたかをくくっていた)、ちょうどその前後私が親友と思っていたクラスの友達が一言の相談もなく学校をやめてしまいました。(家庭の事情だったのですが)
 このことはとても私にとってショックだったのですが、学校が始まり心の傷がいえぬうち同じディスコに通っていた不良友達とつるむようになるのですが些細な事でボス的な子から村八分にされます。他のフツーの子、真面目な子とも仲良くしていた私はその子達の所へ行くのですがまた無視されているのに気がつきます。思い余って"私のどこがいけないのか、どうしてみんな口をきいてくれないのか、"と問うと、"Oちゃんがいなくなって、Tちゃんのところへいって又上手く行かないからって私達の所へ来るの?ずるくなぁい?"そんな感じでした。そうです、こうもりみたいに思われていたのです。理由がわかったので感謝こそしましたが孤独が始まりました。

 その内学校から親へ呼び出しがかかり職員室で担任から"晴美、おまえは学校辞めてくれ、どうせ進級できないし、おまえは、、、ABC,,"とありもしない事を私のせいにするので悔しくて悔しくて泣きながら"私は進学希望ですから学校を辞める訳にはいきません、どうしてもと言うのでしたら校長先生から話を聞きたいので呼んでください、"とやっとのことたんかをきりました。(もちろん校長先生は現れませんでした)

 私はこの事で全く打ちのめされてしまいました。学校でも1人ぼっち、家ではこんな厄介者、さんざん姉が母を心配させていたのを知っているくせに私までもがまたこんな事をしている。いなくなってしまったほうがいい、、ふっと頭の中に浮かんだのは新宿のディスコにやってくる家出少女たち、シンナーで歯はなくなり万引きや恐喝で生活する、、私はあの子たちと同じなのだろうか、どうして私は生きて行かなければいけないんだろう?どうして私は生きているんだろう?そのどん底で私がやっと得た光は、コップが水をそそぐ為にあるように物には存在する理由があるはずだ、私はボウフラのようにふってわいた物なのか?そうだ、私に命がある限り私は私の存在理由を捜して生きよう、絶対に忘れない(そして忘れていません)それまで生きよう、と。16の春でした。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。    マタイ7:7

光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。
                                     ヨハネ1:5

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