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前に出る一歩宮 嶋 裕 子 |
宮嶋裕子さんは作家三浦綾子さんの初代秘書。「百万人の福音」に『三浦家の居間で』を連載中。現在は三浦光世氏 の秘書。27年前、滞米中、サンタクララ教会で信仰生活を守られたこともあり、昨年11月の訪米の折 、白百合会プラスの集会でお話しして下さいました。これは、宮嶋裕子さんのお話をプラス・スタッフの佐藤が文に書き直したものです。お話の全部をテープでお聞きになりたい方は、スタッフまでどうぞ。
三浦綾子さんは、17歳で小学校の先生になりました。熱血漢で、全身全霊で教育をするという人でした。戦争になった時、生徒には「天皇のため、命をかけて戦うのよ」と教えたのに、敗戦で、それが間違っていたと分かったのです。ものすごく一生懸命だったから、間違ったと分かった時に、本当のところへ戻ろうとするのには大きなエネルギーが必要だったのですね。どう生きていったらよいか分からなくなってオホーツク海の海の中にまで入っていく------それは、婚約者だった方に引き止められて、もう一度生きる道に引き戻されたのですが------自ら命を絶たなければというほどの虚無の中にあったわけです。 本当に生きる希望を失って、肺結核になって(当時、結核は、死の宣告と同じ様なものでした)、結核療養所にいる時に幼なじみだったクリスチャンの前川正さんという人に出会いました。彼が本当に命がけで綾子さんに神様の愛を伝えました。綾子さんの病気を治してあげたい、自分が早く元気になって、経済的にも貧しい療養者である綾子さんを助けてあげたい、と医学部の学生で結核療養者だった彼は、肺結核の難しい手術を受けたのですが、亡くなりました。悲しみは本当に大きかったと思いますが、すでに綾子さんは神様の愛に捉えられ、希望を持って生きるように変えられていったのです。前川さん召天の1年後、ギブス・ベッドの綾子さんの前に三浦光世さんが現れました。光世さんは綾子さんを見舞い、1年後にはプロポーズし、「もし貴女が一生治らなかったら、自分は一生独身を通します」と言われました。綾子さんには愛されていることが快復への大きな力になったのだと思います。足かけ5年、光世さんは待って、綾子さんは癒され、ギブス・ベッドからも解放されることになりました。肺結核、脊椎カリエスと13年間の闘病生活でしたが、最後の4年間は全く寝返り一つ打てない状態だったのです。仰向けのまま、お盆の上の食事を胸のところに置き、左手で食べ物を手鏡で映して、映っているものを口に運んで食べたそうです。そういう中から立ち上がって結婚したわけです。
空しさの中で「キリストの愛」に出会って、行くべき道が見つかって、愛する人が与えられ、今こうして立ち上がって希望を持って生きている。このように自分を生かしてくださる神様のことを一人でも多くの人に、伝えたい。悩んでいる人、悲しんでいる人に伝えたい。一人でも多くの人に触れ合うことができるようにということで、結婚して家を建てる時に雑貨屋を開いたのです。そして、来るお客さんに神様の愛を伝えていたわけです。そういう中で小説を書き始めたのです。
三浦綾子の作品というのは、「人々に生きる勇気と希望を与える文学だ」、とか「暗闇から光へと人を押し出してくれる文学だ」と評されます。皆さん、ご存じの増田明美さんは、オリンピックのランナーでしたが、マラソンの途中でリタイア−し、日本でバッシングがありました。とても苦しんだと思いますが、彼女は三浦綾子さんのファンなのです。ある時、お話しする機会があって、「明美さん、どうして三浦綾子さんの作品がお好きなのですか」とお尋ねしたとき、彼女は「綾子さんの、どの作品を読んでも、私を前に押し出してくれる言葉に出会えるからです」と言われました。
旭川の「三浦綾子記念文学館」オープンの時に増田さんがいらして、私がご案内しました。館内には綾子さんのエッセイ集に書かれた言葉が額に入れられて掛けられています。その言葉を明美さんは熱心に大学ノートにメモしておられました。それは「転ぶことが恥ずかしいのではない。立ち上がれないことが恥ずかしいのだ」というものでした。今、日本で、スポーツ解説者として活躍されていますが、彼女の言葉はとっても優しいのです。それを私が申し上げたら、彼女は「私ね、必ず、その選手の良いところを解説で言うように心がけているの」とおっしゃいました。明美さんの言葉が温かいのも、ご自身が失敗した経験があるからだと思います。明美さんも綾子さんの言葉によって光の中に押し出されて歩いているお一人なのかな、と感じています。
自殺を思いとどまったとか、生きる勇気をもらったと言う人がたくさんいらっしゃいます。私はずっとファンなのですが、星野冨広さんもその一人でいらっしゃるわけです。今年の5月にお会いして伺ったのですが、「僕は "綾子さんに影響を受けた" というような簡単な言葉で表現はしたくないんです。本当に13年もの寝たきりの生活のあと立ち上がられ、人々に生きる勇気と希望を与えておられる綾子さんの姿、それは、まるで歌を歌いながら歩いているかのようでした。暗闇の中でどうしたらよいか分からなかった時に、その綾子さんの姿が見えた時、ぼくはあの後をついて行けばいいんだと思いました。ずっと後ろ姿を見て歩み続けたら、クリスチャンになって、今、僕は多くの詩や画をかき、このような生き方をするようになっていました」と言われました。
綾子さんは、日曜日は神様を礼拝する日と決めていて、どんなに忙しくても、締切に追われていても、本当に病気でどうしても出席できないという時を除いて、決して礼拝を休むことはありませんでした。"神様の日" だから、と礼拝後は、病気を抱えている人とか悩みを抱えておられる知り合いの人とかを訪問するという生活をする方でした。私が秘書を辞めてから、もっともっと仕事の依頼が増え、日曜日の午後も仕事をしなければならない日もあったかもしれませんが、少なくとも私が秘書をしていた間は、日曜の午後はそうして人を慰めたり、励ましたりすることに使っていました。
綾子さんは、洗礼を受けた直後(『道ありき』を読んだ方はご存じだと思いますが)、西村さんという方に「知り合った人は、みな自分の責任範囲なのですよ。神様から託された人なのですよ」と言われて、その一言がどんなに私の胸を打ったことだろう、と本にも書かれていますが、その言葉どおりに生きた人だったと思います。
知り合った人全員に責任を持つというのは並大抵のことではありません。綾子さんは、たくさんの人から手紙を貰いました。『道ありき』の本カバーには、なんと綾子さんの住所が書いてあるのです。当然、いろんな病気や悩みを持つ方から夥しい数の手紙が来ました。全ての手紙に返事を書いていましたが、書ききれなくなり、原稿書きにも支障が出て来ました。綾子さんは自分でペンを持てないときもありましたので、光世さんが代筆で書きました。『塩狩峠』からは光世さんが口述筆記をするようになったので、手紙の代筆の時間がなくなって来たのです。どうしても秘書を雇わなければ、この仕事をまっとうできないということになって、私が雇われることになったのです。それ以後、私が手紙の代筆をするようになったのですが、封筒の表に、「-----ということを書いてください」と赤ペンで書かれました。それに基づいてお返事を書きました。後には私が任されて書くようになったのですが、誤解をする方からは「三浦綾子って偉そうなことを書いているけど、手紙の返事すら自分で書きはしない。偉そうに代筆の手紙なんか出しやがって」と言われる方もあったのですが、綾子さんは笑いながら「あなたの手紙の方が価値があるのにね。あたしが書いたら、ただなのにねえ」と言われました。
綾子さんは、神様の前にみな平等だと思っていて、"こんな我侭な私を手伝ってくれる裕子ちゃんは偉い" というような言い方をして下さる人でした。(決して綾子さんは我侭な方ではありませんでしたけど。)そうやって、人を雇ってでも全部の人に手紙の返事を出したいと思われる方でした。手紙を貰うこちらは毎日たくさん頂くけれど、書かれる方は本当に必死になって書いておられるのだから、と返事を書き続けました。
中には自殺を考えて家出して訪ねて来られる方もいました。ある時は、20代の女性がいらして、家にお泊めして、結果的にはその女性は、なんと6ヶ月そのまま滞在されました。でもその人がもう一度生きて行こうと思うようになるまでは、と受け容れておられました。そうやって、生きる力を貰った方が何人もいらっしゃいます。
また、ある時、綾子さんは「人の欠点も見方を変えると長所になるんじゃない?」と言われました。「嘘つきはダメダメって、人は言うけど、想像性が豊かだってことじゃない。」などと言われました。私のことも褒めて下さらない日はありませんでした。以前、私は親切のつもりでいろいろしていたのですが、人におせっかいと言われたりしました。でも、綾子さんは、「おせっかいというのはいつも人のことを気にかけて親切なことで、でしゃばりというのは見方を変えると意欲的」と言われました。私は、だれかが手芸で何かを作っていると、「あ、面白そう」と何でもやってみるんですね。そうすると母は「お前は気が多いねえ」と言うのですが、私は「意欲的な」つもりなんです。綾子さんにあうと「裕子ちゃんはお節介じゃなくて親切で、お喋りなんじゃなくて話題が豊富で、でしゃばりじゃなくて意欲的で、優秀な秘書」ということになったわけです。そんな風に褒めて頂けたので、いつも元気が出て嬉しい、嬉しいと思いながら仕事をさせて頂きました。
ずっと後に、私の子どもに何か問題を見つけた時にも綾子さんの言葉を思い出し心に留めて、望みをなくさないようにしました。私はお節介で、でしゃばりで嫌われて、いつも劣等感を抱えて生きていたのですが、綾子さんの側にいたら、いつも褒められて、褒められて、ものすごく元気になったのです。娘達がたまに「ママの子どもで良かった」と言ってくれる時、「それは綾子おばちゃんから頂いた力よ。ママは綾子おばちゃんに出会えて本当に幸せだったわ」と言います。
もし、みなさんの中で自分の欠点と思われることが気になっていたら、見方を変えて下さい。学校で、いつも歌を歌う時に選ばれる友人と自分を比べて、「私は歌がヘタなんだ、もう一生、歌を歌うのは止めよう」と思ったことがあるんですね。でも今は、いやいや私の声と彼女の声は質が違うのだ。学校の歌を歌うには彼女の声が向いていたのだな、と思えるようになったのですね。人と比べてしまうと自分がダメに思えるのですね。私が、人前で話しているのをご覧になって、「私は人前で話すのは苦手でダメなのよ」と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そうは思わないでください。もし、みんなが私のようだったら世界中、うるさくて仕方ありません。歌のジャンルによってそれぞれ適した声質があるように、人の良いところもそれぞれなわけですから、人と自分を比べないでください。そして、神様は一人ひとりをほんとうに愛していらっしゃるのですから「ダメだ」と思わないで頂きたいのです。旧約聖書に「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という言葉があります。「私の目」というのは「神様の目」、「あなたは」というのは「私たち一人ひとり」です。神様は、私たち人間を一人ひとり高価で尊い存在として、愛する対象としてこの世に生まれさせて下さっているのですから、欠点ではなくて、充分に自分の特性を生かして喜んで過ごして行って頂きたいです。そして、ご自分の隣人の特性もそのような目で見て下さったら、周りの人との距離が近づいていくと思うのです。綾子さんは「始める一歩が道を拓く」と言われましたが、ダメだと思ってしまったら何も出来なくなるわけですね。長い闘病生活ののち、雑貨屋を開いて、『氷点』を書かれたわけです。1000枚の小説も1枚目の原稿から始まるのですね。「これがしたいのだったら、どうしたらできるのか」と考えることが大切です。
「鳥は羽があったから飛べたのではない。飛ぼうと思ったから飛べたのだ」という言葉に綾子さんは共感されたそうです。「ダメだ」と思ってしまったら自分の背中に神様が羽を下さっているかもしれないのに、それに気がつかないで、飛べるはずなのに飛んでいないかもしれないのです。綾子さんがその言葉を聞かれてとても喜んでいたというのを伺って、私もすごく嬉しかったです。
ある誕生日に綾子さんから「誕生日おめでとう。裕子ちゃん、あんた、生まれてくれて有難う」と言われたのです。「あんたがそこに生きていてくれるって思うだけで、私、元気が出るよ。だから来年の誕生日まで元気でいてね」と言われました。どんなプレゼントを貰うより嬉しかったです。そうしたら、私も周りの人みんなを好きになったのですね。あなたも、あなたも、生まれてくれてありがとう、と。綾子さんの愛って、こうだったのだ。神様から愛されて、生まれさせて下さったことに感謝して、だから神様が生まれさせて下さった隣人を大事にし、知り合った人は皆、「自分の責任範囲の方々」と受止めることができたのだな、と分かりました。そして、私も少しでもそのように生きて行きたいと思うようになりました。
綾子さんは「始める一歩が道を拓く」と言われましたが、私は「前に出る一歩が世界を拡げる」という風にも考えています。ある方が「うちに来たら遠慮しないで。もし、あなたが遠慮して一歩引いたら、私も気をつかって一歩さがらなけりゃならないでしょ。そうしたら、二人の距離は二歩離れちゃうでしょ。だから、遠慮しないで」と言われました。その言葉がずっと私の宝になっています。綾子さんの「始める一歩が道を拓く」の言葉と併せて、もし、私が一歩前に出たらどうだろうと考えたのです。一歩前に出ると握手ができるのです。もう一歩前に出たら、hugができるのです。これが円を描くコンパスだったらどうでしょう。一歩前に出たところで円を描いたらすごく世界が拡がります。神様が愛して下さっていることを信じ、ご自分の特性を長所に置き換えて考え、一歩前に出て暮らしてみてください。地上に天国が拡がります。そんな風に私に "一歩前に出る" 元気をくれたのは、綾子さんです。