望みの港

加藤さゆり

 「恵み深い主に感謝せよ。---彼らは荒れ野で迷い、砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救って下さった。主は真っ直ぐな道に彼らを導き、人の住む町に向かわせて下さった。主に感謝せよ。---」(詩107:1-9)。「彼らは海に船を出し、大海を渡って商う者となった。彼らは深い淵で、主の御業を、驚くべき御業を見た。----苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。---望みの港に導かれていった。主に感謝せよ。----」(詩107:23-32)

 私に洗礼を授けて下さった牧師は、「恵みを数える」という言葉を何度も仰っていました。また、ある人は、「主に救われた者の生活は、一言で言い表すなら”感謝の生活だ”」と言っています。「感謝の生活」がどこから出て来ているかを考えましょう。上記の詩篇107篇は、4つの「こういう苦しみの中から救われて---感謝せよ」ということから構成されています。そのうちの1と4を上に挙げましたが、是非、107篇全体をお読み頂きたいと思います。そのグループ分けについて言いますと、6節で「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと」と、それが解決されて8節で「主に感謝せよ」という2つの言葉があり、それらがキーとなって、4つに分けられています。 「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと」というのは、「祈ると」ということです。「祈り」というと、いつも静かに目を閉じて、、、と考えますが、旧約の時代にはむしろ手を天に挙げていたようです。詩篇107篇には、それが4つ書かれています。日本には「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、聖書では「苦しい時は我を呼べ」と神様は仰って下さっています。苦しい時は「『助けて下さい』と叫びなさい」と神様は仰っているのです。

 どういう苦しみの中で詩篇の人たちが叫んだかと言うと、4節に「彼らは荒れ野で迷い---道を見失った」とあります。「道を見失った」というのは、日常生活でもよくあることですが、この詩篇では、「人生で道に迷う」ということです。人生を歩く中で途方に暮れる、という経験はあると思います。詩篇ではイスラエル人の時代的な背景がありますが、私たちの生活の中でも道を見失う、どう生きたらいいのか分からなくなる、ということがあると思います。

 教会にはいろいろな方々が訪れます。親子の関係に悩む人、他人には親切に出来るのに義理の親を大事にできないと悩む人など、いろいろです。こうしたらすぐ良くなる、というような方法はないのです。人間と人間との関係が正常に上手くいくためには、自分と神様の関係が本当にしっかりと結びつく、つまり愛の関係、あるいは感謝の生活ができるようになると、対人関係も回復できるようになります。遠回りのようですが、教会や集会においでくださいと私は、お薦めします。

 ある人は、初めに家庭集会に来られるようになり、やがて教会に入れられて、受洗されると、自分の兄弟が行くのを嫌がったような、親の生活を見ようともしない困難な生活の中に「自分は喜んで入って行きます」と言われます。あれほど思い悩み、涙しておられた方が、逞しくなって信仰生活を歩みだすことができるようになります。そうしたことを「主は真っ直ぐな道に彼らを導き、人の住む町に向かわせて下さった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった」と書いてあります。

 迷う時は、私たちの魂は飢え渇くのです。愛というものに対して、私たちは人から受けることができないと言って飢えたり、あるいは人に優しくできないと言って、自分を責めるということがあります。教会に導かれて行った時に主は私たちの、その飢え渇いた魂を豊かに満たしてくださいます。そして、主に感謝します。ここに感謝の生活が生まれ、人との交わりが回復して行くのです。

 私たちのお仲間のお一人で、お茶やお花の先生をされていた方がいらして、お弟子さんが何人もいました。あることで、一人のお弟子さんとの関係が壊れてしまったことがありました。そのお弟子さんがひどいことを言って、その方にそっぽを向くようなことがあったのです。(以前の自分だったら、「自分は裏切られた」と相手を責めただろう。でも、壊れた関係をそのままにしたら、それは壊れたままになってしまう。それを回復するためには、自分が関係を回復するような方法を取らなければ、その道は回復しないだろう)と思われて、その方は相談に見えました。私は、「こうしたら、、、」というようなことは申し上げなかったのですが、その方は、ご自分の方から、相手のところへ行って、関係を回復して、和解したのです。すると相手の方も、自分の方が失礼なことをして悪かった。それなのに、先生の方から自分のところに来て下さった、というので、お互いの関係は前よりも良いものになったそうです。

 自分の方から壊れた交わりを回復するために出て行くというのはとても勇気のいることです。でも救われた者はキリストの愛に満たされている、その愛に押し出されるようにして、行くことができるのだと思い、このことをいつも心に覚えています。

 「私たちを良いもので満たして下さる」と書いてあるとおり、教会は、いつも道に迷っていた、飢え渇いた魂を豊かに満たして下さるところです。満たされた魂は、いろいろなことができるのです。自分の心が貧しいと、人の欠けや相手がした仕打ちを数えて、”向こうが悪いのだ”と考えがちですが、自分が主の恵みによって満たされていると、向こうの人の気持ちにむしろ近寄って、交わりを回復していくことができる力が与えられるのです。これが第1のグループ、「道に迷っている」魂についてです。これは若い人だけではなく、年をとっても経験します。教会に導かれて、渇いた魂が、主によって満たされて豊かな、感謝の生活ができるのです。

 第2のグループは、10節からですが、「彼らは闇と死の蔭に座る者。貧富と鉄の枷が締め付ける囚われ人となって、」とあります。私たちはいつも自分が「死すべき者」と意識して生活しているか、と問われると、とても病弱な方を除いては、それほど意識しながら生活はしていないような気がします。昔、神父の人たちは挨拶の時に「死を覚えよ」という意味の言葉を交わしたといいます。私たちはいずれ、この地上の生活を終えるべき存在です。

 そうした存在である私たちが、イースターで主の甦りを祝います。主が十字架にかかって下さって、私たちの罪を背負い、3日目に甦られたのです。(プロテスタントの教会では、主が甦られたので、主が釘づけされた姿は十字架上にはありません。)クリスマスでは、光の祭りと言われるようにロウソクの光や小さな電球を多く使います。主が「闇の中に光」として来て下さったのです。闇の中に蹲っていた私たち、死ぬべき者として闇の中にいた私たちのところに「真の光」として主が来て下さったのです。死の力が私たちを閉ざしていた、「死の青銅の扉」を主が打ち砕いて下さったのです。イースターの時に「死の力、はや失せたり」と歌われる賛美歌にもあるとおりです。「死の力」もキリストの甦りの力によって打ち砕かれたのです。私たちは、死すべき者ではなく、キリストの甦りの命に繋がって生きることができる者となったと賛美するのです。

 23節からが、第4のグループで、「彼らは海に船を出し、大海を渡って商う者となった。−−−苦難の中から主に助けを」とあります。貿易のため、荷を積んで船出をしたら、嵐になって、海が大荒れになりました。暴風雨で船は大揺れに揺れ、船に乗っている人はよろめきました。それまで持っていたすべてのこと(航海術のような専門知識や経験などが)一切、役に立たなくなったのです。人生の順調な時には、自分が持っているもので何とか人生を生きていくことができると思います。でも一旦、何かにぶち当たった時には、それまでのものが何も役立たないということを経験します。「揺らぎ」というのは、眩暈がし、知恵も経験もすべて飲み込まれて、一切、成すすべがない様子です。そのときにできるのは、「主に向かって助けを求めて叫ぶ」ということでした。それは、私たちにとってどんなに力あることでしょうか。助けてと言う相手がいないとしたら、どんなに不安なことでしょう。この詩篇の人、また私たちは、助けを求める相手、主がいるのです。すると、主は嵐に働きかけて沈黙させて下さり、波が静まりました。彼らは喜び祝い、「望みの港」に導かれたのです。

 新改訳聖書にある、「望む港」というのは、「彼らの計画にあった、望んでいた港」と捉えられます。そこに導かれて、喜びに沸き、神様の恵みは感謝すべきかな、となります。しかし、共同訳の聖書では、「望みの港」となっています。これは、嵐に翻弄され、自分が望んでいたのではない、目的地とは違った港に導かれたと考えられます。それこそが「望みの港」なのです。人間の計画や望みとは違っても、神様が導いて下さったところが「望みの港」なのです。この船を襲った嵐について、25節では、「主は仰せによって嵐を起こし、、、」とあります。自然現象の嵐を、詩篇の作者は信仰の目を持って見て、「主が計画されたこと」と捉えます。主が嵐を起こし、それを静めて下さったと見るのです。主の驚くべき御業を見るのは、人生の深い淵です。困窮、欠乏、悲惨、あらゆる苦しみ、どん底のような深みの中で主の御業を見ることができると言うのです。

 主の恵みのお姿をはっきり見せて頂くのは、本当に苦しい、苦しい、苦しみのどん底で、何もかも剥ぎ取られてしまったような状態、これより下はないのではないかと思われるほどの、どん底の状態の時にふと気づくと傍らに主がいて下さり、主の御手が底の方から支えて下さっているのを見るという経験をします。それが、「主の働きを深みで見る」ということではないかと思います。この主の恵みを見る度に、神様がこの嵐を起こして下さったのだ、と考えられるようになるのです。嵐は自分にとって不運ではなく、主の恵みであったのだ、この港こそ「望みの港」なのだと言うことができるようになります。マイナス、マイナスと、ないものを数えるのではなくて、これも神様の不思議な御業、これも神様がして下さったのだと覚えることができます。「人生の深みの中で主の恵みを本当に知ることができたのだ」と分かり、生き方がすっかり変えられて、望みに生きる生活ができるのです。。

 教会というのは、こうして望みの港に一人ひとり導き入れられた群れです。いろいろな船が錨を下ろしています。教会は、航路を終えて、港で水などを補給される船のように、与えられる御言葉を聞いて、再び旅に出かける豊かな恵みの力を頂ける人々の群れです。「錨を下ろす」という言葉が出てきますが、ヘブル6:19に「私たちが持っているこの希望は魂にとって頼りになる、安定した錨のようです。」とあります。希望というのは、魂にとって安定した錨のようです。船が錨を下ろすという時、「希望」と「錨」を同じように言っています。希望というのは、6章14節に「私は必ずあなたを祝福し」とあるように、どんなに苦しい、絶望的な状況の中に置かれても、神様が必ず祝福してくださるという約束、希望に錨を下ろす、ということを私たち、クリスチャンは信じます。

 キリスト教で使われる図柄に葡萄がありますが、錨もその一つです。教会に魚が錨をくわえている図柄のものがあります。魚というのはキリスト教の代表的な図柄です。「さかな」という言葉が、「イエスキリスト、神の子、救い主」の頭文字をとってできているからです。(昔、ローマ帝国で迫害された信者が魚の絵を描いて、自分はクリスチャンですと示していました。)教会にある図柄では、魚が錨をくわえています。錨を下ろすというよりも、----私たちの錨、すなわち私たちの信仰というのは弱いですから、いろいろ揺らぐわけです。その私たちの信仰、希望、愛、そういうものを---魚、つまり「イエス・キリスト、神の子、救い主」がしっかりと錨をくわえて、確かなものにしていて下さるというのが、その図柄が表わす意味です。集まりを作っている私たち、群れの中の一人ひとりが、救われた者としてそれぞれの家庭、職場、社会の中で、喜び、感謝の生活に一人でも多くのお仲間ができ、道に迷った人がいたら「真っ直ぐな道はここですよ」と交わりの中に誘いあうことのできる、喜びと感謝に満ちた、主にしっかりとつかんで頂いている、「望みの港」に錨を下ろした、豊かな生活ができるような歩みができることを祈っております。

(4月25日特別家庭集会でのお話より)