光に向かって

中尾 照代

 私は以前、ラジオのリスナーからの質問や意見に手紙や電話で答える仕事をしていましたが、その時のリスナーの中に、病気で目が見えなくなった中年の男性がいました。彼は中途失明者で点字も出来なかったため、手探りで書いた手紙を送って来ました。大きなわら半紙にものさしを当てて書いたようですが、見えないで書くわけですから、まさにミミズの這うような字で「これは<あ>かしら<ま>かしら」と部長さんや同僚と頭を突き合わせて、判読するのに何時間もかかりました。宛名は奥様が書かれたようなので(奥様に代筆してもらえばよいのに)と私は思いましたが、彼は自分の心の叫びを、自分自身で表現せずにはおれなかったのだと思います。

 目が見えなくなったために絶望し、心の中が真っ暗で辛い、苦しい、死んでしまいたいのだと延々と綴られていました。返事を書くほうが辛かったのを覚えていますが、その後、何回か手紙をやりとりするうちに手紙の内容が変わっていきました。彼は、徐々に神のことばに心を開くようになり、神の愛の光のほうへと、心の目を向けるようになっていきました。

 良い本を読んだり、ためになる話を聞いたりすると、私たちの心は、一時的に温まりますが、神の前に未解決の問題を抱えていると、その問題が必ずまた頭をもたげてきます。そうして人を悩ますのですが、もう何年も前に終わったはずの事が、ふとした事で自分の心の中にぶり返し、暗闇に沈み込むこともあるのです。

 人は自分の心の闇を人に見せたくない、誰にも気づかれたくないと思うので、うまい言葉でごまかしたり、問題をすりかえたり、表面をきれいに見せる偽善に走るのかもしれません。でも、そんなことをしても人の心に宿っている闇が消えないことは確かです。心の中に闇を持っていると、本人は気づかなくても、それは必ず外に見えてくるものです。ある人が、「自分の顔にも出るんじゃないかと思うとこわいです」と言いましたが、本当にそうかもしれません。人の心は不安定で罪深く、悪に傾きやすいものだと思いますが、絶えず努力して光の方向に歩みたいものだと思います。

 私たちの信じているイエスは「世の光」、「まことの光」と呼ばれているお方です。闇に閉じ込められてしまった魂に「命の光」を与えてくださるお方です。神の光は私たちの心の奥の奥、底の底まで照らし出しますが、私たちはその光を遮らないよう、気をつけたいものです。