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愛は多くの罪を覆う
榊原 寛
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(1月9日月例会のお話より)
聖書のペテロ第一4章7節〜9節に「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。私の心を捉えたのは、「何よりもまず、互いに愛し合いなさい」という言葉です。聖書を読んでいくと、あまり戒律的なことは出てきません。「〜しなさい」「〜してはいけません」というようなことばかりだったら、「そんなこと守れない」ということになってしまいます。でも、強いて言えば、「〜しなさい」ということが書いてあるとすれば、「愛」についてだけです。「愛し合うべきです」「愛し合いなさい」、「これが全てです」と強調されています。
世の中では「愛せない」ことが多いのです。「許せない」ことが多いのです。「受け容れるなんてとんでもない」というようなことが多いのです。でも、そのように動物的に、本能のまま、生きるのが人間ではないのです。「人である限り、無理です、駄目なのです」というところ---そこを乗り越える力をイエス様が与えて下さいます、というのが聖書のメッセージなのです。ですから、「愛し合いなさい」と言われているのだと思います。
「万物の終わりが近づきました」というのは穏やかではありませんが、いろいろなメディアの情報から感じませんか。日本でも皮膚ガンが増えてきました。「オゾン層」破壊のため、紫外線によって皮膚ガンが起こっていると言われています。地球は「オゾン層」に包まれているから生物が存在できると言えます。
神様が「善い者」にも「悪い者」にも雨を降らせ、「正しい者」にも「悪しき者」にも太陽の光を注いでくださる。神様の愛とはそういうものです。神様は「オゾン層」のように私たちを囲み、愛してくださっているのです。世界を創造された神様がおいでになり、つき抜ける青空を見るとき、この地球がすっぽり覆われているように、私たちも、いえ、私も、その神様の愛に覆われていると感じられるのです。家庭や近所で嫌なことがあったとしても、ふと空を見て、神様が私を分かって、受けとめて下さり、「オゾン層」のように覆っていて下さると受けとめると、前向きに生きて行けるのではないでしょうか。「大丈夫だ」という気持ちが始まってくるのではないかと思います。
万物の終わりが近づくことを思わせることとして、他にもいろいろな問題があります。日本で降る雨は全部、酸性雨だそうです。また、人口爆発。高齢化社会、、、。人々が仲良く住んでいかなければ地球って、ますますつまらない家族になってしまいます。そんな中で、私たちの家庭も私たち自身も神様の愛に覆われているのだ、と受けとめて行くのと、行かないのとでは、随分、違ってくるのではないかと思います。「終わり」を感じさせるものは、この他にも砂漠化があります。地球の砂漠化です。
このように「万物の終わりが近づいている」表れがあります。そんな時、聖書では、2つのことが言われています。その1つが「祈りなさい」と言うことです。なぜでしょう。それは、「祈り」というのは、ただ独り言を言っているのではなく、神様に繋がる、神という「永遠へのパイプ」が繋がるということです。私たちは、地上の生命をもって生まれましたが、この地上で終わる生命体ではなくて、神様に繋がる「永遠に生きる」生命体なのです。生きる時に呼吸するのと同じように、神様に祈るということが必要なのです。
どのように祈ったらよいか分からない時、イエス様は「私の名によって祈りなさい」と言われています。「神様は祈りを聞いてくださいます」とあります。「痛いです」「苦しいのです」、「どうしたらよいか分からないのです」と訴えれば良いのです。そうすれば、神様は一番良い道を与えてくださいます。
それは、自分にとって都合が良いという道ではありません。-------子どもが包丁を欲しがっても、あげる親はいません。-------それと同じように、私たちの目や考えで「こんなはずではない」と思うような応えであったとしても、長い人生、あとで振り返って、「あれは、辛かった。祈りの通りにはならなかったけど、あれでよかったのだ」という道が与えられるのです。
もう一つは「何よりもまず互いに熱心に愛しあいなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。「愛」というのはなかなか表現しにくいかもしれません。「思いやる」「大切にする」とも言えます。終わりが近づいた時に大切なのは、お金やものの豊かさなどではなく「お互いを大切にする」、そこから「生きる」ことが始まると言えるのではないでしょうか。
例えば、大きな災害などで、パニックになった時、大切なのは、イエス様が言われたように、「自分を大切にするようにあなたの隣人を大切にしなさい」ということです。あなたの一番身近な「隣の人」、「近い人」は誰でしょう。------あなたの家族です。ゴルファーのリー・トレビノという人が大切なこととして、「同じ息遣い、同じ歩調、いつも同じ笑顔」ということを言っています。それを実行するのは、なかなか難しいことですね。
相手の欠点、自分の気に入らないということがあります。「嫌だなあと思った人」については「何から何まで嫌」ということもあるし、そう思う自分が許せないこともありますね。夫婦喧嘩も些細なことから始まります。元をたぐってみると、「自分の思うとおりにならない」ということから始まっているのです。いらいらしてくる、心ががさついてくるとキツイ言葉をかけてしまうことがあります。「愛は多くの罪を覆う」というのとは反対に「暴いてしまう」ことになりかねません。
ドイツのナチスによって六百万人以上のユダヤ人の命が奪われました。収容所で腸チフスが流行った時、多くの人達がバタバタと倒れる中、たった一つのパン切れとスープを病んだ仲間たちにそっと置いて、労役についた人達がいたそうです。自分が倒れてしまうかもしれない中で、そうした行為をした人々の中に、生き延びた人達が多かったそうです。また、強制労働の中でも夕陽に染まった泥水に「美しい」と感動する心を保てた人達に、生き延びた人たちが多かったということを聞いたことがあります。
どんな終わりが近づいたとしても、神様によって愛されているのだ、生かされているのだ、「オゾン層」に包まれている------これは信仰です。信仰とは自然の中で受け止めることなのです。-----「自分も神様に愛されている、守られている」と受け止められる人は、周りを豊かにさせ、祝福された人生を生きることが出来るのです。
「終わり」ということを考えると、歴史の中でインカ帝国のように滅んで行った国々がたくさんあります。米国や日本もそういう方向に一歩、二歩と近づいているのではないか、とある歴史家が警鐘を鳴らしている本を読んだ時、「ああ、そうかもしれないなぁ」と感じました。
「終わり」ということを考えると、寿命ということもありますね。分かっていることは必ず「自分の終わり」が来るということです。他人の「終わり」は私たちが迎えてあげればいいのです。でも「私の終わり」は私で迎えなければならないのです。どういう迎え方をすれば良いのかと考えます。
柳田邦男さんが書かれていますが、国立がんセンターの元名誉総長の石川先生という方は、肝臓ガンで亡くなられました。日本で最初に肺ガン手術を執刀された方ですが、自らガンに見舞われ、病床で言い続けたことは、「みんな有難う、みんな本当に良くやってくれた。大切なのは治療技術ではなく『愛』なんだ」と感謝されたそうです。その墓碑には「愛は寛容にして、慈悲あり」という聖書の言葉が刻まれているそうです。
彼が生前、母の日に奥様に手紙を書かれ、「お母さん、我が家はあなたの愛と優しさによって本当に平和になりました。本当にありがとう。」とあったそうです。そして、最後に「また共に希望に満ちた、新しい道を歩こうね」と。私は、本当に感動しました。それと同時に厳粛さを感じました。それは、ガンの名医であろうとなかろうと、ガンは骨の髄まで蝕んでくるという現実です。私はどういう終わりを迎えるか分かりません。どんな厳しい現実に向き合うかもしれません。でも「また希望に満ちた道を一緒に歩こう」と-----素直な気持ちで神様の国を目指している----そう言わせた「命」が、「終わらない命」――愛、優しさなのだと思います。それをしっかりと受け止めて、その優しさに生きていく、そんな生き方をご一緒したいなぁと思います。
「愛は多くの罪をおおうから」だ、と聖書は言っています。まず、私たちは神様の愛によって包まれている。私たちは本来、自分の我儘や醜さ、時に私たちは嘘をつき、怒り、ののしり、裁きもしています。本来は、裁かれてしかるべき罪人である私たちが、イエス・キリストの愛によって覆われ、愛され、赦されていることを受け止めたいものです。私たちもまず、お互いに親切にしあい、大切にしあい、感情のままに怒ったりするのではなく、神様の愛にコントロールされながら、小さくても良い、「オゾン層」の一つ、「小さな風呂敷」、ハンカチのような小さなものでも良い、どんな小さなものでもよいから、私もそんな存在の一人にさせて頂きたいと思います。