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生かされている喜び
Sみどり
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主の御名を心より賛美します。
この度、ある姉妹より原稿の依頼をうけました。頼まれたら「ノー」と言えない私は「はい、承知しました」と、いとも簡単に軽く承諾してしまった次第です。しかし、主は私のような小さい、おろかな者をも『私が教えるから大丈夫だよ』とおしゃって下さって、私を用いて下さった事を心より感謝致します。
夕食後、近くの公園、あるいは家の近辺を歩く事を日課としています。これも健康管理、体力増進の為にと思い、歩いています。天地創造の主に感謝を捧げながら。
公園の中には緑の木々が誇らし気に立ち並び、時には、シカ、ウサギ、カヨテ、リスは勿論ですが、この動物達も生きるにはお仕事をしなければならない、あちらこちらとさまよいながらも食物を探し求めている光景に、「動物は倉に食物を貯えることもせず、その日その日を十二分に生きているのだな−」と感心させられます。
早朝、或いは夕方になると、何十羽のスズメ達が電線に止まっているのを見かけます。何と整然と一列に並んでいるのです。「ああ、今日も早天祈祷をやっているのだなー」。又、夕暮れには感謝の祈りを捧げているんだなー』と微笑ましくさえ感じます。鳥の世界には争いが無いのだろうか、心配事はないのだろうかと考えさせられます。どうして人間の世界には争いがあり、苦労ばかりが遠慮会釈なしにやってくるのでしょうか。
主は、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません、神は真実な方ですから、あなたがたを耐える事のできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第1、10章13節)
と、試練、困難、苦労を通して、人間を練り上げ、磨いて下さるのかと思う程、どんな試練に出会っても必ず脱出の道を備えて下さることを確信するものです。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩編50:15)、
また詩編91:4には、「主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に身を避ける。」とあります。私の幼少の頃、鳥を飼っていました。その親鳥がヒヨコを生み、寒さから身を守る為、大きな羽を力一杯広げ、何羽かのヒヨコを脇の下にかくまっていた事を思い出します。そうです、イエス様は愛の方、優しいお方、また私達の父親である限り私達を見放すことは決してありません。いつもどんな時にも大きな大きな愛の御手を広げて「ここにいらしゃい」と呼び掛けて下さいます。このイエス様の呼び掛けに感謝を持ってお答えすることが出来る様にと願っています。
5、6年前になるでしょうか、私達のベッドルームの窓近くに山鳩の巣を見つけました。良く見ると、三ヶの卵が入っていました。いつも卵をあたためていました。その中の一ヶは下に落ちて割れてしまいました。そして2羽のヒナが生まれました。親鳥は毎日規則正しく餌を運んで来ました。そして日に日に大きくなり、旅立ちの日がやって参りました。
親鳥は一生懸命に歩くこと、飛ぶことを教え、巣立って行きました。その鳥に「ウディ」と名付けました。それから2、3年は子供が親元に里帰りする様に必ずその時期になると、古巣に帰って来てくれました。今は一体どうしていますやらと時々気にかかります。が、神様は一羽の雀さえも見放すことがありません。ましてや人間は雀より勝るものではないかとおしゃっています。
「全ての道はローマに通じる」と言う諺があります。
何処に行くにも道があるから、その目的地に到着することが出来ます。
天国に行くにもイエス様が示して下さった道があるのです。
「私が道であり、真理であり、命である」
と私達は今、天国に向かって一歩一歩と前進しているのです。しかも、いつもイエス様が共に居て下さって、手をさしのべ、導いて下さいます。今日も私の心の中にイエス様をお迎えする部屋があるでしょうか、と自問自答する毎日です。
日に日に年を重ね天国に近づいていきますが、主のみことばに励まされ、年を取ることも恵みの一つと感謝を捧げます。 イザヤ書46章3-4節の通り、私が白髪になり動くことが出来なくなっても、主は背負い、救い出してくださるお方です。主に感謝、ハレルヤ!
年輩のお方に御会いすると、ずーっと以前からお年寄りであって、自分はいついつまでも今の状態であるという錯覚に陥ります。お若い方にお目にかかると、その若さをうらやましく思いますが、いやいや自分にもこのような時があったんだと慰めます。年は絶対に追い越すことも追い越される事もないですネ。
私が一番好きな歌は、リビングプレイズ16番「主は今生きておられる」です。
「主は今 生きておられる わがうちにおられる
すべては主のみてにあり あすも 生きよう 主がおられる」。