きのこ雲の下から

S.アニー


1947年春、青山学院高等女学部4年に転校した私は、その後の私の人生に計り知れないチャレンジと信仰という人生最大の勝利を手にしようとは夢にも考えていなかった。

米国生まれの2世として、日本語を読むことも話すこともできなかった私は、1941年(昭和16年)山口県大島郡の小学校に歳より4学年下って入学した。そして続く広島女子高等師範学校附属山中女学校2年の時、被爆した。その後、いつかは米国へ帰ることを考え、私は姉と東京の親戚を頼って上京し、青山学院高等女学部へ通い始めた。

当時の私は、同級生より老けて見えることと、広島なまりを気にしている女学生だった。そんな頃、音楽の福田花子先生が授業の始めに出席をとっていらした時、私のことに気付かれ、原爆が落ちた時、広島市の近くに居たかどうか尋ねられた。私が被爆者だということが分かると、級全体に、「皆さん、誰も金沢さんが、人類初の原爆の体験者だということを知らなかったのですか」と言われ、私にその体験を話すように、そして級には、あの強力な恐るべき兵器の存在を知っておかなければならないという意味のことをおっしゃった。私は、この日のことを今でも鮮明に覚えている。

戦時中の日本で、教育を受けることは容易なことではなかった。父親や兄弟は戦場に行き、幼い弟妹は安全を求めて疎開し、生活必需品は全て配給という中で、大抵の家族は生きるために、度重なる空襲の中で、並々ならぬ努力をしていた。上級生は軍需工場へ動員され、中学1,2年生は畑仕事や工場へ動員されていた。戦争も終わりに近づく頃には、教室で過ごす時間が、次第に少なくなていた。

当時、広島は、呉、岩国、岡山などと異なり、空襲を受けていなかった。そこで、空襲時の火災に備え、家々を取り壊して空地造りをしていた。私たち中学生はこの作業に動員されていた。

1945年8月6日は、13校から教員64名、生徒2440名が作業についていた。

山中女学校の生徒もこの建物疎開作業に動員されていたが、8月6日の朝は、お役所の人が来校するということで、昼食準備のため5名の生徒が学校に残った。私はその中の一人だった。前日、取壊した家の後片付けをした私は、炎天下の作業はつらくはあったけれども、一日台所仕事をするのは、あまり気乗りしなかった。

昼食後、いつものように寮の友だちと手を振って別れた私は、これが友だちとの最後になるなんて考えもしなかった。そして、当時としては、大層モダンな家政科教室へ行った。

間もなく警戒警報のサイレンが鳴ったが、その頃の私たちは、何か広島は大丈夫という気分からか、すぐに防空壕へ避難しなかった。続いて空襲警報が鳴った。その時、大音響とともに、目も眩む閃光が走り、爆心地から2.5キロメートル以内を一瞬にして壊滅させた、あの爆風を感じた。「伏せなさい」という先生の声と同時に、私は流し台の下に見をかがめた。

気を取り戻した私は、落下物に潰されそうになっているのを知った。私は、その瞬間が永遠の長さに思えた。そして、友人の呻き声と母親を呼び続けているのが聞こえた。このまま生き埋めになるのではないかという恐怖が一瞬頭をよぎった。直撃だったのかしら、とも思った。

外で声がするのを聞いて、私は助けを呼び、声とかすかな光を頼りに少しずつ這い出ていった。外には無傷の友人2人が立っていて、私を助け出してくれた。その時誰も、あの広島市が灰燼に帰し、まさにこの世のホロコストであったとは誰も想像もしていなかった。

火の手が学校にもすぐ伸びてくることに気づき、歩ける人は宇品の方へ行くように言われた。その時、向こうから歩いてくる先生に出会った。先生の背中は裂け、メガネのわくが首筋にくい込んでいた。一緒にいた友人は手首が折れ、その他無数の傷を負っていた。私は前歯が折れ、ひじの骨が折れ、その他数え切れない傷と半身をひどく打っていた。

建物疎開作業に行っていた生徒は、昼頃までには学校へ帰ってきたが、彼らはひどい火傷を負い、殆どの人たちが裸で、とても正視できる様子ではなかった。彼らは苦痛に泣き叫び、一度ならず「金沢さん、私のこと分かるでしょう」と聞かれた。水を飲ませることを禁じられていた私は、無数の唇にぬれタオルを押しあてた。友人の一人を掛けていたエプロンでくるんであげたが、このため後で、私は救護班に亡くなったと誤認されてしまった。

先生や旧友たちと学校を離れたのは、もう午後半ばを過ぎていた。緊急救護所の薬は底をつき、私たちは宇品へ向けて、とぼとぼと歩いていった。先生と旧友の一人は、皆と一緒のペースでは歩けないから、先に行くようにと言った。川では、土手に居る生存者を船が来て救っていた。私は、メガネもなく、折った右ひじは簡単に包帯をかけてはいたが、はだしで、もうこれ以上歩けないと思った。そんな時、軍のトラックが私たちをひろってくれた。

寮の友人で2年生のKさんは、顔と上半身にひどい火傷を負っていた。私たちは一緒に救護所で手当てを受け、兵舎の一隅で一夜を明かした。一人ひとりに毛布と認識票が渡され、私たちはそれを首にかけて一列になって点呼を受けた。Kさんはのどの渇きと傷の痛みで、私がとめようとすると、無気味に見える手で私を殴るのだった。

親切な兵隊さんのお蔭で、私とKさんは並んで毛布を広げられる場所を探しあてたが、広かった兵舎は、文字通り、苦しみに泣き叫び、呻いている負傷者でうめつくされ、鼻を突く悪臭は、堪え難いほどだった。

旧友より年上だった私は、状況を把握しておかなければと思い、もし女学生が運び込まれたら教えてくれるように兵隊さんに頼んだところ、気持ちよく引き受けてくれ、Kさんが痛みのうちに眠った時には、他にも級友がいないか、兵舎の中を見廻らせてくれた。

燃えさかる広島を見ながらの宇品での一夜は、とても長く無気味だった。私は火災に包まれた中で、力尽きて倒れている人、泣き叫んでいる人のことを思った。

夜中に亡くなった人たちの遺体は、それぞれ敷いていた毛布にくるまれ運びさられ、後から来る負傷者のためのスペースが作られた。級友の1人が運ばれてくるトラックの中で亡くなったことを知らされた。

親戚の人や友人たちが、それぞれ愛する者たちの名前を必死の思いで呼びながら捜し歩いていた。井出さんのお母さんは、娘は生きており、すでに帰宅したのだろうと云って安心していた。学校の先生が見えたので、私はこれまでにつかめただけの級友についての情報を伝えることができたが、私は、一緒に家政科教室にいた友人の一人が落ちてきたはりの下敷きになって、亡くなったことを知らされた。Kさんの容態は悪化する一方だった。彼女は私が彼女を置いて、行ってしまうと云ったりして、一種の錯乱状態にあった。猛暑と医薬品の不足と非衛生的な状態が多量のうじとハエの発生につながり、火傷の傷にうじとハエが群がり、Kさんは泣き叫び、流れ出るうみは乾いて、毛布が彼女の体に貼りついてしまうのだった。

重傷者と自分で動ける者とは、別々に分けられるという噂が流れた。そんな時、兵隊さんの一人が、Kさんの面倒を見ることを約束し、動き出した列車で広島駅へ行き、帰宅するように勧めてくれた。そして、広島駅からの無料パスが支給された。

私はKさんの様子を見て涙が止まらなかった。後日、彼女のお父上から手紙を頂いたが、それによると8月8日、私が船舶練習所を出た後にお父上は到着されたこと、そして翌日、彼女が亡くなったことが記されていた。そして、さらに手紙には、娘が何の手がかりも残さず、たった一人で市の何処かで亡くならなかったことについて感謝の気持ちが述べられていた。

宇品から広島への列車の中で、偶然にも私は近所の家の息子さんに出会った。彼は私を見た時、驚きのあまり声も出なかった。そして、広島で私を捜している母に、私のことを知らせてくれると約束してくれた。大畠に着いた時には、もう最後のフェリーは出た後だったので、私は知り合いの家で一夜を過ごした。

私が生きて家に帰ったことは、いち早く近所中に広まったが、母はまだ広島で私を捜していて家にいなかったので、私は従兄の家に泊まった。

母の帰宅で、嬉し涙と、緊張がとけるとともにショックからの回復は、悪夢の始まりでもあった。

1945年9月16日、再び焼け跡の校庭に教職員と生徒が集まり、今後のこと、爆弾のこと、一緒にいない友人たちのことなど話し合った。しかし、日本人本来の控え目な性格からか、私たちは泣かなかった。ただ抱き合って西洋風に私たちの感情を表わしたのだった。一、二年生479名のうち、330名が8月6日に、その後6名が亡くなっていた。

私の青山学院での日々は、素晴らしい教育を受けると同時に、1949年には、イエス・キリストを救い主として受け入れるという、この世における最も貴重な決心をする導きともなった。あれから三十数年、私は教会学校での教育に携わってきている。どんなに小さな貢献でもよいから、子どもたちに心の糧を与えることができるよう祈り、そして、地球全体に平和と、国と国との間のコミュニケーションがあることを祈っている。

核時代は、24万人の死者と10万の負傷者をだし、恐るべき破壊力による壊滅的な出来事で幕をあけた。そして、40年後の今でも、生存者の中には、当時放射能を含んだものに触れたためにいまだに亡くなっていく人もいる。核エネルギーは、建設的なことにも利用されてはいるけれども、一方、核戦争は避けられないというような世界的な恐怖や不安の方が大きくなってしまっている。広島原爆の生存者の一人として、今日の5メガトン中性子爆弾は、広島の4マイル四方を灰燼に帰させた破壊力の330倍もあるということを考えるだけで、身の毛のよだつ思いがする。

私たちは、しばしば、話し合いをしても余り効果はないのではないかと思うことがある。しかし、私たちの住むこの地球に、二度とあのようなホロコストを起こさないよう、話し合いの道を求め、これを切り開き、そして途切れないように努力し続けていかなければならないと思う。

注:筆者の許可を頂き、青山学院校友会誌に載ったものを転載させて頂きました。