人間関係について(4)

中尾 照代

だいぶ前、日本にいた時のことですが、「近所の犬の鳴き声がうるさくて、、、」といった話を聞くと、「それはイーヌのモンダイではない」などと言い、「あそこのラーメンはまずい」とか「あそこの寿司はおいしい」とか同僚が食べ物の話をするのを聞くと「それは、クチのナーカのモンダイです」と得意顔で言ったりする、日本語がかなりできる婦人宣教師(アメリカ人)がいました。

この方が人間関係の問題を耳にすると「それはゴマン(傲慢)のモンダイです」と真剣な顔で言っていたのを思い出します。そして、しょっちゅうモンダイを起こす同僚の一人を「ミス・モンダイ」と呼んでいました。

この宣教師は人間関係のトラブルの多くが、人の高ぶりに起因していることを聖書のみことばを思い浮かべながら、考えていたのではないかと思います。

聖書には「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ12:10より)とありますが、現実は逆の場合が多いようです。「人より自分の方が善い。自分の方が勝っている」という自負心は、人の思いの、奥の方まで流れていて、何かある度にそれが言動に表れてくるのではないかと思います。(人より勝りたいためにあくせくし、平安や休息を失い、人間関係をもとげとげしいものにしている有様を私たちはあちこちで見ています。)

人には神によって与えられた、それぞれの分があり、それぞれ違った能力や立場があって、それには基本的に優劣の差などない筈ですが、人はわずかでも、人より自分が勝っているように見える部分があると誇り高ぶって、他を見下げたり、他人を押し退けてまで、自分の分を増やそうと卑しい手を使ったりするのです。その姿は醜いですし、相手を傷つけ、秩序を乱し、人間関係の混乱をも招くのですが、高ぶった心のままだと、そのことに気づかないのです。

「高慢の臭いがする」と言われますが、周りの人は気づいていて、密かに鼻をつまんでいるのに本人は平気でいることがあります。「口臭は自分には臭わない」わけですが、人の高ぶりも自分には臭わないので厄介なのかもしれません。

しかし、「わざとらしい謙遜」ということもありますし、「謙遜に見える傲慢」などと言われたりするように、時に傲慢の正体は複雑で変装したりもするのですが、でもこれは、そのうち必ず人間関係の中に悪い実を生じさせますので、分かって来るのです。
お互い繰り返しへりくだることを勧告している聖書のみことばに自分を照らしながら、「へりくだる恵み」を求めて励んでいきたいものだと願わされます。

こんな話があります。ある家族の一人が、うっかり水を入れたやかんを床に置いたためそれに気づかなかった他の一人が、それに躓いて水をこぼしてしまったそうです。そこで、やかんを置いた方が「すみません。そんな所にやかんを置いた私の不注意でした」とすぐに謝りました。するとやかんに躓いた方が「いや、足元に気をつけなかった私の方が悪いんだ」と言い、「いや、私の方が」「いや、私の方が」とお詫びの競争(?)をしあって、最後には明るい笑い声が家中に響いたそうです。これは、それまでいがみ合い、咎めあってばかりいた嫁と姑がクリスチャンになってから生まれた美しい実話だということです。

お互いにへりくだることで避けられる人間関係のトラブルがいっぱいあると思いますし、へりくだる心と態度は、あらゆる場合、あらゆる場所で人間関係を心地よいものにすると思います。

人に注意されたり、忠告されたときも、「何をうるさい」「自分は間違っていない」と高ぶって、心をかたくなにしてしまうとその人の人格(品性)の成長は、そこでストップされてしまいますし、大切なものを自分のものにするチャンスを自分でフイにしてしまうのです。

誠意をもって忠告してくれる人の言葉は、たとえその時は痛くても謙虚に聞き入れることで、多くの貴重なものを獲得できるのです。そうして忠告した人と、された人の関係はとてもうるわしい幸いなものになることでしょう。

あの人には「言っても無駄だ」「人の言うことに耳を貸そうとしない」愚かで困った人と思われてしまうよりも、あの人は「話せばわかる人」「聞いてくれるので話しやすい人」と周りから評価される方が、どれだけ幸いなことでしょうか。謙虚さがないとできないことだと思いますので、心して励んでいきたいと思わされます。

高ぶった心はまた、愛のない、冷たい態度で人に接することにつながっていくと思います。へりくだる思いがないために、心に温かさの欠如している人は他人のささいな間違いや欠点に対して、実に矢のような早さ、矢のような鋭さで非難を飛ばします。そういう人間関係が見られる所は実に冷え冷えとしていて、安らぎのない居心地の悪い所になります。「すぐに人をとがめる」というのは人間の悲しい習性だと思いますが、やめることができたら、きっと幸いな人間関係が生まれることでしょう。(もちろん、ミステークはできるだけ無いように励むのは当然ですが。)
高ぶることは、何の努力も修練もなくても誰にでも簡単にできますが、いつもへりくだることは大変難しいと思います。健全な思考も必要ですし、何よりも神の恵みと助けが必要だと思います。まず神の前にへりくだって、卑しい罪人の私たちを愛して、命まで投げ出してくださったイエス様の愛のお姿、低くなって、人の僕(しもべ)となられたイエス様の謙遜を見ることから、真の謙遜を学ぶことに励んでいきたいと思います。

あの婦人宣教師ではありませんが、「ミス・モンダイ」だけでなく、「ミスター・モンダイ」、「ミセス・モンダイ」も結構居るような、難儀な人の世にあっても、神の愛をいただいて、お互いを大切にしあう人間関係の育成に励んでいけたらと願わされています。

「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与える」  (第一ぺテロ5:5)