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人間関係について(5)最終回
中尾照代
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「人間関係は難しい」とこのシリーズの初めに申しましたが、「本当にそうだなぁ」と自分自身、痛感させられています。
「ああしたらいい、こうあったらいい」などと口で言うのは簡単ですが、実際に問題に直面してみると本当にどうしていいか分からないことがたくさんあります。ですから「人間関係について」述べてみても「仕方がないか」と思ったりします。それでも少しは何かのお役に立つだろうか、、、と考えて書いてきました。
何度か申しましたように「自分を愛するように隣人を愛せよ」という聖書の教えをお互いに守ることができたら、人間関係はきっと素晴らしいものになるだろうと思います。
人間は誰でも自分を愛しているはずですが、しかし、現代は本当の意味で自分を愛せない、自分を粗末にしている人が増えているように思います。だから他人をも愛せないで、他人を粗末にしてしまうのかもしれません。
「自分を愛する」というと「自己中心、わがまま、自分のことしか考えない」と受け取られがちですが、実はそうではないのです。聖書の言う意味での「自分を愛する」というのは、神によって生かされている自分の存在を尊ぶ、自分の心と人生を価値あるものとして大切にする、ということなのです。
人間の価値は存在そのものにあって、外側のものでは計れないのですが、しかし、現代は外側のものが最重要視されています。ですから外側のものを得るのが不得手な者は軽んじられ、粗末にされてしまいます。そうしてみんながいわゆる「強者」になろうと躍起になっています。科学や医学までもが、その本来の役目を越えて、そんなことに手を貸してしまっています。(そういうことに不安や疑問を感じている人は少なくないと思いますが。)そういう社会では真に「自分を愛する」ことも、「他人を愛する」こともできなくなってしまうのかもしれない、と思わされます。
ある人が、社会に弱い人やハンディキャップを持っている人がいなくなって、みんなが強くて優秀な人だけになったら、この世は果てしなく奪い合い、傷つけ合うだけの、恐ろしい社会になるのだろうと警告していますが、本当にそうだろうなぁと思いました。人間が弱さや欠けを持っていることはむしろ大切なことで、人は自分の弱さを知ることで、他人を思いやる優しさを持てるようになるのだと思います。
私は時々「何故この世には病弱な人やハンディキャップを持った人々がいるのか?」と考えるのですが、実はこういう人々が社会に潤いを与え、ギクシャクしがちな人間関係の中和剤になっているのをよく目にします。
神はいわゆる「健常者」と呼ばれる人々にはできない、特別な使命を「弱者」の人々に与えておられるのかも知れません。それは人間社会にとって非常に大切な使命ではないかと思います。
互いに弱さや欠点のある者同士がより良く共存していくためには、互いのそれを受け容れ合うことが必要になってきます。これは大事なことですが、しかし、注意しなくてはならないのは、「人を受け容れる」ということが何でも彼(か)でも「そのまま許容する」というのではないということです。
聖路加国際病院の元院長で、本なども多く出しておられる日野原博士は、「人を生かす拒否もあり、人を殺す許容もある」と言っておられますが、確かにそうだと思いました。しかし、私たちはそういう点で「間違ってしまう」ことが多いのではないでしょうか。それが上手くいくような人間関係の中には本物の愛が息づく----と思うのですが。
悲しいことに、人は互いの違いや弱さや罪深さなどの故に、誤解したり、嫌ったり、傷つけあったりしてしまうのですが、それをそのままにしておくと、人間関係は壊れたままになってしまいますので、やはり互いにゆるし合うことが必要になってきます。
もちろん「ゆるし」もまた難題であり、安易に考えてはならないのですが、しかしこれは人間に不可欠なことです。もし、人をゆるすことができないとしたら、人はその「ゆるせない」枷(かせ)のなかで絶えず、苦痛にさいなまれながら日を過ごすことになります。また、人の世には「ゆるしてもらう」しかないような事柄も生じてきます。「ゆるすこと以外」「ゆるされること以外」どんなにしても解決のない問題が多くあるのです。大小さまざまに、、、。
誰もがそういう問題には直面したくないし、そんな事柄は避けたいと願っていますが、避けられないのが人の世です。全く予期もしなかったような問題に悩まされることも多々ある世に私たちは生きています。そんな事柄の中で人は、人生の悲しみや辛さを経験するのですが、しかし、その悲しみや痛みを味わう中で、人は内側に何か泉のようなものを持つことができるのではないかと思います。(うまく言えませんが。)
そういう時に私たちは、人をゆるすために「悲しみの人」(イザヤ53章)となってくださったイエスさまの愛が身に染みてわかるような気がします。実は、私たちは神の恵みの中でこそ「ゆるし、ゆるされる」幸いに生きる者となれるのですが、、、。
人間はそれぞれに好みも価値観も生活習慣も違っていますから、それがお互いにぶつかり合ったり、噛み合わなかったりするのは当然と言えると思います。家族や友人のような親しい間柄でも、相手の「あの点は好きではない、受け容れられない」と思えることの一つや二つはあると思います。(十や二十の人も、、、?)もちろんそれは相手にも、こっちに対してあるわけです。しかし、ある人たちは年中、相手ばかり咎めていますから、その関係はいつまでたっても建設的にはならないのです。向こうもこっちの欠点や嫌な面を忍んでくれているのだから、こっちも相手のそれを忍んであげる必要があると思います。つまりは「お互いさま」ということです。
ある婦人が、ある雑誌の中で、「私は歯磨きのチューブを真ん中からしぼるが、夫は下からしぼるべきだと言って、いつも意見が合わない」と言っていました。これなどは、どこにでもよくある女性と男性の違いのようです。
どんなことにおいても人間にはいろいろ考え方、やり方の違いがありますが、その中には案外、どうでもいいようなささいな事も多いようです。しかし、そのささいな事が、大きな問題に発展してしまうことも少なくないのです。その原因は、お互いに「自分のやり方が一番で、間違っていない」と主張してゆずらなかったり、それを相手に押し付けたり、一方的な態度だったりするところにあると思います。
そういえば、以前、日本でラーメンの銘柄のことで争った夫婦の殺人事件がありました。「なんでそんな事で?」とみんなが首を傾げたのですが、争いや問題の火種は、最初は何でもないような小さなことが多いようです。小さいうちに消すように気をつけることが肝心だと教えられますが、ささいなことの中でもお互いに譲り合い、忍び合い、理解し合って、歩み寄るように努めていけば良い関係が持続できるのではないかと思います。誠実さや善意、謙遜などは、人間関係をよりよくするために不可欠のことなのですが、しかしこちらがどんなに、そのような態度で励んでも、応えてくれない相手がいるというのも事実です。そんな時、口にだせない、うまく表現できないような苦悩を覚えるのですが、そのような時も、やはり神の助け、神の理解を仰ぐことで励まされると思います。
そうして、過ぎたことにはなるべくこだわらないようにして、前向きに進んでいけたら、いろんな失敗もプラスになると思います。「互いに愛し合いなさい」と聖書は繰り返し教えています。いつの時代にもどんな所でも、愛は美しいものであり、力あるものであり、生産的なものなのですが、しかし、しばしば愛の誤用や乱用がみられるのは残念なことです。やはり、聖書を開いて、真実な愛の何であるかを学びながら本当に心から「互いに愛し合う」人間関係を築いてゆけるよう努力していきたいものだと思います。
人間関係の良否を大きく左右する、言葉の遣い方のこととか、人間の内側に潜んでいる自我の処理の問題とか、複雑な現代社会に増え続ける人の心の病とどう関わっていくか等々、人間関係の問題、課題はまだまだ、数限りなくあると思いますし、とりあげたらきりがないと思います。
人間関係はいつも難しいし、それは自動的に良くなることは決してないのだということを心に留めて、絶えず努力し、励んでいかなくてはならないと思います。それを覚えて頂けますなら、私の書いたことも何かの役に立ったかもしれないと思っています。
人はみな神に造られ、神に愛されている尊い存在なのですから、自分をも、他人をも大切にしながら、与えられた人生を感謝し、喜ぶことができたらと、願わさせられています。ありがとうございました。
私たちの助けは天地を造られた主の御名にある。(詩篇124:8)