母の想い出

I 寿子

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与られた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることは出来ない。』(伝道の書 3:11)

この御言葉が心に湧き溢れるように、主がすべてを最善に導かれて母の地上での90年余りの生涯が閉じられて、丁度今、九年が経とうとしています。まるで昨日の出来事のように思えます。1997年5月4日、母の日の一週間前の清々しい聖日の早朝でした。感謝なことに、記憶力も今の私以上で、頭も冴えていた母でしたので、一緒に過ごす時を大切にし、喜んでくれました。その数時間前の朝の1時過ぎ迄ついついおしゃべりをしてしまい、「日ごとの糧」でディボーションをもち、「お休みなさい」と私が言った時は、忘れることが出来ないくらい、にこやかな顔をしていました。そして朝目覚めた直後のことでした。私が起きるのを待っていたようで、おはようの挨拶もそこそこ、「飲み物をとって」といった次の瞬間でした。決断の早い、実行型の母らしい、栄光の御国への旅立ちでした。幸いに家族が揃っている時で、夫、娘と、3人の腕に抱かれて、安らかに母は見送られました。又、礼拝前に直ぐとんで来て下さった大谷牧師(前サンタクララ教会牧師)がお祈りして下さり、私達も心を合わせ、驚きと悲しみの中にも、母を主に委ね、慰めをいただいて、共に感謝の祈りを捧げることが出来ました。 

母はこよなく花を愛する人でした。日本に住んでいた幼い頃、私達が起きる前には、庭の花の手入れをすっかり済ませていた母でした。玄関先に植えていた可愛い勿忘草は母の大好きな花のひとつでした。母が召される3ヶ月前に、私が家で世話をしたいと、姉や妹家族が面倒をみて、母の住みなれたロスから我が家に連れてまいりました。丁度初春から初夏にかかる頃で、優しい日差しを浴びて、色あざやかに咲き乱れている、ゆきずりの春の花々に良く出会い、大喜びでした。イースターの頃には我が家の椿や、中庭一杯に見事に覆われる藤の花などを、飽かずに眺めたり、戴いたあやめの花を手許において蕾が開いていくのを目を輝かしてみまもったりしていました。召される3日前には、サンホゼの日本庭園に行き、満開も終わりに近づいていましたが、八重桜を鑑賞する静かな午後のひとときを過ごしました。桜の花が咲く頃になると、その頃ドライブで道々目に入る満開の桜に感激していた母が懐かしく、胸が一杯になります。

母は10歳の時に家族で渡米し、ロスに住んでいました。雑誌に載っていた記事などから知ったのですが、母は中学時代に全米の声楽のコンクールで優勝したとのことで、十代で演奏活動を始めていました。それは牧師だった父との条件つきで、人の前に立つのなら、まず、戴いた賜物は主に捧げるようにと、主への讃美を第一とし、教会でご奉仕を約束させられたそうです。残されたアルバムや、スクラップブックに収められている新聞や雑誌の記事に、世界の名花だとか、リリックソプラノの歌姫などと、おおげさに書かれているのをみて、其の頃の母の一面を知りました。昔東京は東京市だったのでしょう、当時の永田市長への親善大使とか云うことで帰朝公演を兼ねてか、片道2週間近くかかる船旅で訪日をしました。日本ではリンドバーグ氏の歓迎会で独唱をさせてもらったり、橋本国彦氏の指揮でレコードの吹き込みをしたりしたようで、その時の写真なども今では貴重なものになったかと思います。

アメリカでは、ウォーナーズブラダーズの蝶々夫人として出演した映画の写真など、その他今では珍しいものがいくつか残されています。当時でも競争の激しい音楽の世界で、演奏活動が出来たのは、神様から特別な賜物を戴き、認められ、訓練され、世の中に紹介されたという、恵まれた環境におかれたからこそと、母が申しておりました。当時のオペラ界で名声高い方が師事を申し出でくださり、レッスンを受けたそうですが、高額なレッスン代を花屋さんでアルバイトをして、親に頼らずに自分で捻出し、良くがんばったようでした。 母の花好き、花の手入れが上手だったのは、アルバイト時代に鍛えられたからでしょう。神様は無駄なことをなさらないようです。母の家庭は裕福ではない上に、母の兄の私大の医学部の学費の為に家族はかなり経済的に犠牲を強いられていたと叔母からも良く聞かされていました。

母はUSCに留学していた父と出会い、父の卒業後に結婚しました。母は恵まれた道を順調に進みながらも、一つのことを手抜きせず、命がけでするような母の性格と、キャリアと家庭は両立出来ないという堅い信念もあり、妻、母として与えられた生涯を全うしたいと、家庭を選び、それからは、演奏活動から離れました。現代のように何でも飛行機で飛べる時代とは違い、又交通網も限られ、当時は演奏旅行も困難ではなかったかと想像します。 

幼い頃から、音感に乏しい私には歌うことには、全く関心はなかったようでしたが、母がよく、私の姉に歌を教えていたのを聴いていました。哀しい歌、美しい歌、寂しい歌、喜びの歌、愛の歌と、今思いますと懐かしい名曲ばかりでした。幼な心に、どの歌をきいても、いつも胸が熱くなったのを覚えています。美しい旋律と詩が歌声と溶け合って、私に語りかけ、歌の魂が心を揺さぶったのでしょう。ひとつひとつの歌のもつ命を全身で伝え、感動を与えてくれた、母のまろやかな歌声が懐かしく甦ります。 

母の父は家族や祖父の近くにいた親族一同からは異口同音に聖人とか仙人呼ばわりされていたようで、又厳格な面では、子供にとっては反抗心もあったようですが、祖父の墓石に刻まれているヨハネ13:14の御言葉「弟子の足を洗ったイエス」のように、謙虚な祖父の後姿を見て母は育ちました。その祖父は、明治20年に群馬の高崎の実家から、京都まで歩いて、道々野草で飢えをしのぎながら同志社の神学校に入学したと、良く母から聞かされたものです。祖父は継母から、お金も出してもらえず、いじめられていたようでした。長男であった祖父が渡米を決意したのも、異母兄弟との複雑な家庭で、家督相続の問題もあり、全く自由になりたかった故かとも聞かされています。

祖母は教会生活を第一とした人で、渡米後はロスの合同教会のサンデースクールに子供達を連れていっておりました。そこで、いつしか養われた御言葉は母の魂の栄養になっていたのでしょうが、祖母が良く口にした御言葉も母はそのまま受け継いでいたようで、日々の生活の中で、タイミング良く、祖母がこう言っていたとか、私達に同じように言っておりました。其れを聞くたびに、私は母親が与える影響の大きさを思い、御言葉をもっと蓄えられたらよいのにと反省もし、信仰の継承という使命をも感じさせられています。母は私達を慰め励ます時に、「どんな時でも神様は公平」と言い聞かせておりました。エゼキエル34:16『わたしは正しいさばきをもって彼らを養う』からでしょうか。母は「あたえる人」でした。神様に献げることを喜びとし、又人にも気配りが行き届いていました。使途20:35『与ふるは受くるよりも幸いなり』文語で良く聞かされ、それが孫に伝わったのか、ソーシャルワーカーの道に進んだ娘のリサは自分に相応しいと、息子の名前を「与える」が語源の、スペンサーと名づけました。私達は娘の日本名に母の名前をつけました。祖父が母につけた「十字架のもとに3つの力」協力の協子です。

私の父は子供の教育は日本でと、私が4歳の時に家族で帰日しました。母は父に献身的に尽くし、父を大切にする人でした。寒い日には着る物を暖めておき、靴をはかせ、靴紐まで結わえてあげるような人でしたが、母が52歳の時、最愛の夫、父を57歳で天に送り、それから40年近くの未亡人生活を送りました。父は召される前の6ヶ月間入院していましたが、その間母は一度も家に帰らず終始父に付き添い、今では許されないようですが、私達娘3人もその順天堂病院の病室を一つ借りて寝泊りしていました。母なりに最善を尽くして、父を天に送りました。

私達3人姉妹それぞれが、アメリカで結婚し永住を決めたのを機に、日本とアメリカを半年ずつ往き来していた生活に終止符をうち、母もアメリカに永住を決めました。それからは七人の孫の誕生の度に、一人一人を、自分の生活のすべてを犠牲にして、孫の手がかかる時期は、私達を良く手伝い、心行くまで世話をしてくれました。気丈夫な母で、私達には厳しいところもありましたので、ぶつかりあうことも度々でしたが、それは今となっては懐かしい思い出となってしまいました。一番年長の孫になる姪は、最も手をかけてもらったこともあり、彼女にとって母は特別な存在だったようです。母の事を、私にとっては、「ダイナマイト」のようだったと、一言、母のメモリアル・サービスで涙ながらに話していましたが、私達家族の中での母の存在感は重く、大きく、その一言がまさに適した表現でした。母のメモリアルサービスには母の妹をはじめ、子供、孫達が各々パートをとり、執り行うことが出来ました。

家族で帰日後、第二次大戦が始まり、父は陸軍情報部でビルマに赴き、母の親兄弟とは日本とアメリカで離れ離れで音信不通、日本語も不自由な中で、敵国の言葉の英語の一言も使えず、不慣れな戦禍の日本、一人で家を守りぬく中、毎夜頭上に敵の爆撃機B29が到来、生まれて間もない私の妹のおしめ入れに変身した、昔愛用していた洒落た帽子用のスーツケースを携えて、夜ごと子供を起こしては防空壕に逃げ込んで夜を過ごしました。ついに山形に疎開、父方の遠縁にあたる家に親子肩身の狭い思いをしながら身を寄せ、そして終戦を迎え、父は長い間行方不明、収入も途絶えたのでしょう、私達を支えるため戦後は通訳として働き、母は多くの試練に耐え抜きました。その後、父が奇跡的に生還し、後に起こした事業も順調に軌道に乗り、母の苦労も主が報いてくださいました。 母の長い生涯の思い出は、余りにも多く、いい尽くすことはなかなか出来ません。晩年は夕日が沈んでいくようだとも云われますが、私には、母が召されるしばらく前から、不思議と母の中に、地平線に黄金色に輝く太陽が昇るような、美しい朝日の光景をみる思いが致しました。それは、いままでには見られなかった、安らぎと静けさの中で主を待ち望み、急に信仰が燃えあがっていく様な、何か特別な輝きと暖かさでした。私も朝日が昇っていくように、内なるものが燃えあがるような地上での最後になったら素晴らしいと願っています。

「くしき主の光 心に満つ、御空渡る日の 影に優る、
ああ 主よ 我が主よ 輝く御姿を胸に映すとは 我が主の恵み」

躍動感のあるリズムと明るく美しい歌詞、この讃美歌533番は、晩年の母の愛唱歌の一つでした。 ヨハネ3章16節『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と、サンデースクール時代に母が英語で覚えたこの彼女の生涯のみことばを信じる信仰を、私も同じくすることが出来た幸いを、主に感謝しています。