愛を見つける旅

G 裕子

私が洗礼を受けたのは、1990年1月7日の事でした。当時、ニューヨーク州のバッファロー市に留学していた私は、ある事件を通して、自分の罪やおろかさを痛いほど知り、また、その罪をイエス様によって赦された体験を通して、洗礼を受ける決心をしました。洗礼の一週間後には、日本への帰国が決まっていたので、洗礼を受けると決まってから受けるまで、1ヶ月くらいしかなかったと思います。洗礼クラスも数回、サッとポイントを押さえて聖書を読んだ程度で、あまり頭に残っていませんでした。「こんな事で、私は洗礼を受けてしまっていいのだろうか。」とも思わなかったのです。不思議ですね。若かったからでしょうか。哀れみ深い神様は、私がこのまま日本に行ってしまったら、洗礼を受けないとわかっていたのかもしれません。それは、誘惑の多い日本に帰国してから痛感しました。

そんな風に、クリスチャンになってしまった私ですが、一つだけ聖書の中で心に残っていた言葉がありました。「LOVE 愛」でした。私がクリスチャンになってから、もう16年も経ちましたが、この16年間はこの「愛」を見つける旅であったように思います。私にとって、「愛」を理解するのは、とても困難でした。それは、私が高校を卒業するまで日本の社会で育ち、その中では「愛」を伝えたり、感じたりする事があまりなかったからです。「愛=大好きなこと」というレベルだった私ですが、日本に帰ってからはどんな教会に行ったら良いのかもわからず、次第に教会探しもやめて日曜日にはいろいろな予定を入れて、遊んで過ごすようになりました。霊的な成長が止まっていたような時期でしたが、今振り返るとそんな時でも神様は、時間をかけて私の内面を少しずつ変えてくださっていました。

「そこでイエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37−39)

この聖書の言葉を、数年後、仙台に引っ越した時に再び行き始めた教会で聞きました。その頃、2人目の子供が生まれ、2人の小さな子供を抱えてストレスも限界に来ていた時でした。そんな時に、教会に行こうと思ったのも、やはりあの時洗礼を受け、時間をかけて神様が私を少しずつ変えてくださっていたからでしょう。「一番大切な、神様を愛する事、隣人を愛する事が今度こそわかりますように。」と心から願いながら、聖書勉強会にも通いました。そんな中で、愛とはどんなものなのかを、「コリント人への手紙 第一」で学びました。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(コリントI 13:4-8)

「これが、私の知りたかった事です!」と思わず心の中でつぶやきました。愛とは、ただ誰かを好きだという感情だけではないのです。私の中で、「愛」という漠然としたものが具体的な形を見せた時でした。

私には、もう一つ課題がありました。それは、どうやって「愛する」かということです。「愛する」とは「愛」を実行に移すことですが、それを考えながら、また数年経ってしまいました。昨年、このサンタクララの教会全体で「人生を導く5つの目的」という本を勉強したのですが、そこで神様は私の疑問に答えてくださいました。著者であるリック.ウォレン牧師は「愛を示す最善の方法」として、以下のように書かれています。

愛を他の言葉で言い換えると「時間」となるのです。
お金なら増やすことができますが、時間は増やす事ができません。人のために自分の時間を使う時、あなたはもう二度と戻って来ることのない自分の人生の一部を与えているのです。あなたの時間はあなたの人生そのものです。ですから、時間こそあなたが人に与えることのできる最高の贈り物なのです。

言葉だけでは意味がありません。

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」(ヨハネの手紙 第一 3:18)

哀れみ深い神様は、長い年月をかけて私に「愛」と「愛すること」を聖書や本、また知り合った人々を通して教えてくださいました。さあ、これから私はこれを頭の中にしまっておくのではなく、実行していかなければなりません。この世界で残っている私の時間を、神様を愛するために、また隣人を愛するために大切に使わせていただきたいと思います。今、洗礼を考えている方は、私のように何も知らずに洗礼を受けてしまった人もいるので、安心してくださいね。長い道のりでしたが、多くの恵みがあった16年でした。「もっと聖書を勉強してから洗礼を受けたらよかった。」と思った事は、不思議と一度もありませんでした。

最後に、「愛」を実行する者への神様の素晴らしい約束を聖書から贈ります。

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
                      (出エジプト記 20:6)