“きみは愛されるため生まれた”を聞いて

村上 宣道(埼玉県坂戸教会牧師・元サンタクララ教会牧師)

 NHKアナウンサーの古屋和雄さんが書かれた本で『愛されたい症候群』という本があります。古屋さんは、以前、「おはようジャーナル」という番組の司会をされていました。様々な問題にスポットをあて、ジャーナリストとして分析しながら話題を紹介していくという評判の良い番組でした。その番組の終了後、その内容を総合し、まとめた形として本にして出されたものです。その本の中で、いろいろな問題、トラブルを突き詰めていくと、誰もが「愛されたい、、、愛されたい、、、愛されたい」という思いを抱いているということに行き当たる、と書かれています。あえて「症候群」と書名に入れられたのは、今の社会が病的なまでに「愛されている」という実感がない、「愛の飢餓状態」にあるということからでしょうか。日本はいろいろなモノで満ち足りている。けれども、人間が生きるうえで、一番大切な「愛」というものがない、「愛の欠乏症」「愛の飢餓状態」に陥っていると書かれていることを興味深く思いました。

当時、豊田商事事件という、お年寄りたちを対象にした詐欺事件がありましたが、その被害者であるお年寄りたちは、インタビューされる中で、「あの連中は悪い人たちだったけれど、私たちにしてくれた親切、優しさは忘れられない」と言うのです。詐欺師の彼らは、一人ぼっちで暮らしているお年寄りと一緒に料理を作ってくれ、一緒に食べてくれ、久しぶりに「これが食事というものだなあ」と感じさせてくれた。時には一緒にお風呂まで入って、背中を流してくれたというのです。お年寄りの話す、同じ話を何時間でも聞いてくれたというのです。騙されたと分かっても、その時の嬉しさが忘れられない、というのを聞くと、私はもっと寂しさを感じました。愛でも何でもない、偽モノの優しさに参ってしまうことへの寂しさです。

若者たちにも、同じことが言えます。ある番組で、繁華街で若者たちにキャッチ・セールをする人が話しているのを録音していました。若者を捉まえて、いろいろな高価なモノを売りつけたりするのです。彼らは、若者たちについて、「何ねぇ、突っ張ってたって、あれは寂しいのよ。そこにエサまきゃ、イチコロよ。」といっているのです。「友達、仲間ができるからさ」というと、すぐに彼らは引っかかってくる、という言い方をしていました。

子どもたちはどうでしょうか。私の子どもが幼稚園に行っていた頃、お絵描きの先生が絵画心理学をしている方で、色の使い方や構図で子どもの心理が分かるということでした。たとえば、「母の日」などにお母さんの顔を描いたりしますね。すると、だいたいの子どもたちは、お母さんの口をとても大きく描くそうです。でも、描き忘れるものに「耳」があるそうです。髪型で、隠れている場合もありますが。先生が言われるには、子ども達は、お母さんからうるさく一方的に言われるけれども、お母さんに自分の話を聞いて貰っていない、という思いが深いところにあるのではないか、ということでした。モノは充分にあるけれども、本当に子どもが求めているのは、「お母さん、話を聞いて」という願い、叫びなのかもしれません。子ども達の深いところで、本当に「愛されている」という実感はなく、それを聞いたら親の方は、「これほどしてあげているのに、、、、」とびっくりするかもしれません。でも、よく「うちの子に限って」というような事件が起きています。神戸の少年の事件もありました。心理学者たちが書いていますが、子どもたちは深いところで「愛されている」と感じたことがない。まさに子どもは「愛の飢餓状態」にあると言えるのではないでしょうか。事件を起こした子がだいぶ経ったある時、「自分も愛されていたらしいね」と言い、そのあとがらっと態度が変わったということが、弁護士のインタビューの答えの中にありました。

日本には「便利屋さん」という商売があります。その中に「聞き屋」という仕事があるそうです。ただ、話を聞いてあげるのだそうです。子どもも大きくなると話をする時間も殆どなく、ご主人は仕事で忙しく、帰宅も遅くて、会話も殆どない。話相手がいなくて、気分が鬱積するので、「聞き屋」の一番のお得意さんは、主婦だそうです。子どもがお母さんに話を聞いて欲しいだけでなく、お母さんもまた、心を開いて話ができる相手が欲しいのです。本当に寂しい、「愛されたい症候群」があるのですね。

ご主人たちにもこのことは言えます。サラリーマン川柳というのがあって、「粗大ゴミ、朝出してもまた戻る」(笑)という川柳を見つけました。ご主人も一体、自分は何なのだろうと思いますよね。今は給料も自動振込みで、有りがた味も少なくなり、、、。子どもが寝てから帰宅し、たまに顔を合わせるのは日曜日だけ。子どもに向かって、奥さんが「しっかりしなさい、お父さんみたいになっちゃうわよ」などと言われるような存在になっている場合さえあります。(笑)月給を運ぶ道具のような感じで、ご主人たちもまた、「帰宅拒否症」というのでしょうか、家に帰りたがらないのです。帰っても居場所がないのですね。夜遅い時間が電車のラッシュになったりします。そんな電車は、寂しさで満杯という感がしますね。お年寄り、若者、子ども、主婦、夫、まさにあらゆる人が「愛されたい症候群」なのですね。

誰だって、「愛されたい」という思いがあって当たり前です。また、自分が「愛されている」という実感がない限り、他の人を愛することなどできません。聖書には「愛は神から出ている」とあります。作家の伊藤整は、聖書で言う「愛」という言葉にぴったりの言葉は、日本語の中にはない、そういう思想がない、と言っています。自分の中に「愛」があるかな、と思うと、「自己愛」というものが別の形で出ているものであったりします。人に「愛をください」と求めてもやはり限界があるのです。愛の出所というと、聖書では、やはり愛は神から出ているのです。その愛から初めて私たちは、ああ、これほどまでに神に愛されているのだから、「互いに愛し合いましょう」という言葉があるのです。「これほどまでに愛されている」のだから、「愛されたい症候群」が癒されるのです。自分は愛されているのだ、という充足感を経験したときに、初めて他に愛を及ぼしていくということが生まれてくるのです。

では、一体、神はどういう形で私たちに愛を示してくれたのかというのが、聖書のメッセージです。フランシスコ・ザビエルという人が日本に初めてキリスト教を伝えたわけですが、ラテン語から日本語に聖書を翻訳するときに一番苦労したのが、「神」という言葉と「愛」という言葉だったそうです。日本語の神という言葉を使うと「八百万(やおよろず)の神」と一緒になってしまう。それで、ラテン語の「デウス」という言葉をそのまま使ったようです。「愛」という言葉も日本語だと、「恋愛」「情愛」というようなものと一緒になってしまう。聖書が言っている「愛」というものと一番近いとして、訳された最初の言葉は「お大切」という言葉だそうです。「デウスのお大切」というのが「神の愛」ということだったのですね。


神様が私たちを愛してくださっているというが、どれくらい愛してくださっているのか、ということが示されているのが、-----神様にとって一番大切なひとり子・イエス様を私たちのために送ってくださった----“クリスマス”ですね。----神は、一番大切なひとり子を与えてくださるほどにあなたを大切に思っています、ということなのですね。聖書の一番有名な言葉は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。」神様はあなたが幸せになるためだったら、一番大切なものを与えても惜しくはないよ、ということです。

三浦綾子さんの小説『塩狩峠』に出てくる「愛」というのは、一番大切なものをあげられるということです。曽野綾子さんの『誰のために愛するか』という本の一番最初のところにも「愛する」ということは、「愛する人のために死ねる」ということだとあります。二葉亭四迷という人は ”I love you” という言葉を「私はあなたのために死ねる」と訳しました。まさに聖書が言っている「愛」はこういう意味です。軽く ”I love you”, ”I love you” と言えるものではないのだというのです。聖書のいう ”Love ” は、まさに神がご自分の大切なひとり子を与え、そのイエス・キリストは、「あなたが救われるためならば、わたしの命を提供しても惜しくはないよ」と、まさに命を捨ててくださった。”I love you” -----「私はあなたのために死ねる」。事実、私のためにあの十字架の上でキリストが死んでくださったところに本当の意味があるのですね。二葉亭四迷がクリスチャンであったかどうか知りませんが、当時の文学者はよく聖書を読んでいたのですね。聖書が言っている「愛」は「命がけの愛」なのです。

私も1967年から72年までこの辺り(サンタクララ)に居ました。そのころ豊留という方がいて、その方の書かれたパンフレットには「3種類の愛」とありました。1つは ”because of ” の愛というので、「〜だから愛する」というものです。もし、神様が私たちを愛してくださる時、「あなたは真面目な人、人を裏切ったことがない、嘘をついたことも恨んだことも妬んだこともない、心の清らかな人だからあなたを愛する」といったら、(愛される人なんているのだろうか)と思ってしまいますね。

私の名前は宣道、「宣べ伝える」という意味で、牧師の子どもです。牧師の子だからと言って、小さいころからきちんとして来たかというと、そうではなくて、中学3年のころから反抗期に入りました。「神なんかいない」と言い、どんどんおかしくなって、恥ずかしい話ですが、万引きの仲間に入り、初めは見張りだったのが、自分でも万引きするようになってしまいました。これが牧師の子か、という状態まで落ちました。「神がいなければ何でもできる」と思っていたのですから、「神がいない」とどうしても決めたかったのですね。「神がいない」と決めたら、どんどん空しくなって行ったのです。神様の愛が ”because of ” の愛だったら、自分など全く愛される資格などない人間だと思います。

2つめは ”If ” の愛です。「今までのことは言うまい。もし、これから私の言うことを聞き、わたしのために何でもし、間違いを起こさないなら愛する」というものです。これも難しいものです。(もう間違いはしない)という気持ちはあっても気づいたら、(ああ、また失敗してしまった。思っていたことと全然違うことをしてしまった)ということがあるのが現実です。”If ” という条件つきの愛では、やはり愛される資格のある人はいないかもしれません。

3つめは ”In spite of ”(〜にも関わらず) の愛です。間違いだらけの罪人の自分であるにも関わらず、ある時は、(これからは絶対しない)と約束したのに失敗してしまう、というような者であるにも関わらず、愛してくださるのです。聖書の言っている愛は全然、愛される資格のない者であるにも関わらず、愛してくださるというものです。周りを見ても、とてもこの人は好きになれない、とてもこの人のためにはできない、どうしても受け容れられないということは、人間的に見れば、あるものです。ですが、私たち自身は、神様にどういう風に愛されているでしょうか。もともと愛される資格があったでしょうか。いいえ、全く愛される資格がない者であったにも関わらず、愛されているのです。

私は反抗期の時、家を飛び出して帰らない日がありました。東北にいたのですが、母は、夜寒い中、ずっと私の帰りを待って、玄関の前で立っているのです。12時、1時を過ぎても。それを私は公園の所から見ていたのです。寒いですから、母は、綿入れのねんねこを着て、足を擦りながら、深々と冷える中、立っているのです。私も寒いのですが、母が早く家の中に入ればいいのに、と思いながら見ていたのですね。自分が早く帰れば良いのですが、、、。(笑)意地を張っていました。そして、とうとう4時、まだ母は外に立っていました。5時、だんだん夜が白み始めて、5時半ころ、朝ご飯の用意のためでしょうか、家の中に入って行きました。私は(あ、入っていった、入っていった)と思って、うちの方に行き、裏の戸からそっと入って行ったら、母が目の前に立っているんですね。(笑)

私は、(ああ、何と言われるだろう)と思って、うつむいていました。すると、気がついたら私は母に包まれて、ぐっと抱えられていました。「寒かったろ、こんなに冷たくなって」と言うのです。何と言われるかな、と思っていたのに、母に「寒かったろ(母自身が寒かったのに)、こんなに冷たくなって」と言われ、私が意外に思っていると、母は「お前淋しかったんだね。」と言いました。「お母ちゃんの愛が足りなかったために。ごめんね、宣道」と言って、ぐっと私を抱きしめたんですね。その時、私は(違うよ、母さん。違うよ、ごめんなさい)と。何か、体中が溶けていくような思いがしました。

そのとき母が、祈ってくれたのです。「イエス様が十字架の上で、『父よ。私を釘付けたり、ひどいことをする人たちを許してください。彼らは何をしているのかわからないのです』と祈った、その祈りは宣道のためにも捧げられていることを信じます。この宣道をイエス様、あなたは責めずに愛して、受け容れてくださっていることを感謝します。」という祈りを聞きました。

それまで、私は牧師の子なのに、反抗してもう駄目だ、と思っていました。たとえ世界中の人が救われても私は赦されない、私みたいなのは、もう駄目だと思っていました。本当に遺書を書いて、死に場所を探したこともあるくらいでした。そんな私を母が、何も言わずにそのまま受け容れて、「ごめんね」と言ったのです。「私の愛が足りなかったために」と。イエス様は「彼らは分からないでいるのです」とまるで弁護するようにして、十字架の苦しみ、死に免じて彼らを赦してくださいと言われたのです。それが、聖書の「愛」、イエス様の「愛」なのだ。----私も愛される。愛されているのだ。愛される資格はないのだけれど、愛されているのだと初めて分かったのです。

人間って「私は愛されている、神は私を見捨てず、私を受け容れて、愛してくださっている」と分かったときから、ものすごい充実感-----もう他には何も要らない----私は愛されている。私を愛してくださっている方がいる。もうこれだけで充分だ。この全世界を創造された神が私を愛していてくれる。その神から愛されている。私は愛される資格などない。親からもお前みたいな奴と言われても仕方ない私なのに神は愛してくださっていると分かったのです。

その時から私は、人生観というか、この愛があれば生きられる、何でもできると思いました。それがエネルギーとなりました。それまでは、自分のことが好きになれないというか、鏡を見て、時に(嫌な奴、、、。)などと感じてました。性格的にも嫌な奴、ろくな奴ではないと思っていました。自分のことを愛せない人というのは、何となく人のことも嫌いになってしまうのですね。自分だって、自分のことを好きでないのだから、あの人だって私のことを好きな訳はない。こっちから好きになってなんかやらない、という風に。そのような悪循環があって、本当に寂しいわけですよ。私なんか愛されるわけがない、愛してくれる人などいない、というように引きこもってしまうわけです。そのうちに人のことも好きになれない。愛せないという毎日になり、その気持ちは本当に淋しいものです。

でも、愛されていることが分かると、人のことも別のように見えてくるのです。ああ、私みたいな者も神様は愛してくださるのだから、この人も神様から愛されている大切な人なのだ、と。聖書には
「私(神様)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
(イザヤ43:4)
とあります。私はこの言葉を読んだとき、まさに鳥肌がたったという経験をしました。「神様ありがとうございます」という気持ちから、(えっ、この人も、この人も神様の目には高価で貴いのだ)と思ったときに、(ああ、あいつ嫌な奴。あの人はどうもなぁ)と思っていた人が、別な目で見ると、(ああ、あの人も神様に愛されている人、神様にとって貴重な人、、、)というように全然、違って見えてきて、新しい関係が生まれてきたのです。

人というのは、人との関わりの中でしか生きていけませんし、一生、自分と付き合っていきます。その自分を「私も愛されている者だ」といって、自分を受け容れられるようになり、同時に周りの人たちを受け容れていくことができるようになるという生活が、一番幸せなベースなのだということを経験させられます。壊れた「人間性」を神様の愛によって回復されるとき、ああ、生きるって素晴らしい。お互いの関係って、素晴らしいと思って生きられたら、幸せだなと思いますね。
そして、その愛は神からしか出てこないのです。作り出して、努力して「愛するぞ。愛さなければ。愛しましょう。」と言って、愛せるものではありませんね。ですから、まず、愛される資格などないにも関わらず、自分は愛されている------その充足感があるから初めて自分の中にも「愛」が生まれ、培われ、育っていくのだと思います。

歌の中に
“きみの存在が わたしには どれほど大きな喜びでしょう 
きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている”
とありますが、この歌が歌われるのは、今、人々が求めているのは、「私、生きていていいのだろうか。私って何なのだろうか。私って必要とされている人間なのだろうか。私は愛されているのだろうか」という孤独感を持っている現代の状況へのメッセージなのだろうな、と思うのです。
聖書の言葉に基づいて、この歌を理解できたら、「自分の歌」になっていくのだろうな、と思います。
                    (白百合会プラスでのお話より)
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作詞・作曲 イ・ミンソプ
                             訳詩 神 明宏 他
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は われらの出会いの中で 実を結ぶ
きみの存在が わたしには どれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている
きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている